初期の時代----技術・ヴィジョン・利用者たち 1839-1875
042
ジャン・バティスト・
サバティエ=ブロ

ルイ・ジャック・マンデ
・ダゲールの肖像
1998
London
042
ルイ・ジャック・マンデ・ダゲール
静物(図27)
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ダゲレオタイプのケース、
フレーム、マット

プロフィール
ルイ・ジャック・マンデ・ダゲール

成功した舞台装置デザイナーとしての初期のダゲールの経歴の中には、彼がやがて光を使って不変の画像をつくり出すことに執着していくのを暗示するものは見当たらなし・。彼は1787年にフランス、コルメイユ・アン・パリシスのプチ・ブルジョワの家庭に生まれた。生来の芸術的才能があらわれてくるとともに、彼は地元の建築家に弟子入りする。1804年、ナポレオン戴冠の年にパリヘ核り、舞台装置家イグナス・ウジェーヌ・マリ・ドゥゴッティの工房でさらに徒弟修行を積んだ。装飾効果に対する直観的な感受性に恵まれていたことから頭角をあらわすのも早く、1807年には写実的なパノラマ画の制作者としセ有名だったピエール・プレヴォスのアシスタントとなった。9年間にわたりプレヴォスの下で働くかたわら、ダゲールはしばしばパリのサロンに油彩画を出品している。また、20巻本の『古きフランスヘのピトレスクでロマンティックな旅』のためにスケッチや地勢図を描いている。この仕事には、ジェリコー、アングル、ヴルネといった画家たちも参加していた。1816年、その卓越した技量とイマジネーションを認められ、ダゲールはパリでももっともよく知られていた小劇場のひとつと舞台デザイナーとして契約を結ぶ。さらにその3年後には、オペラ座でもデザイナーをつとめている。こうした興行の場へ集まってくるのは、特に新しい都市中産階級の観客たちであり、彼らが趣味として求めたのは本物そっくりの出来ばえとロマンティシズムをたたえた表現内容だった。1821年になってダゲールは、ジオラマという新しい娯楽を売り出すことを企図したのだが、公衆が巨大なスケールのイリュージョンの描写を見るためなら代価を支払うことをよく知っていたのである。ジオラマは彼自身の描く《ザルネンの谷間》(そして彼のパートナーのシャルル・マリー・フトンが絵筆をとった《カンタベリー大聖堂のチャペルの堂内》)の現実と見まがうような再現描写を売り物にして1822年7月に公開された。それは照明の操作により、うららかな日中の情景を一転して、嵐の猛威に見舞われた場面へと変貌させ、描かれた光景が荒涼化するさまを強調するという人目をひきつける効果を備えたものだった。1830年の政治的混乱で一時勢いをそがれたものの、ジオラマは1839年に完全に焼失してしまうまでロマンティックな題材を提供しつづけた。大きな紗幕の上に遠近法的な効果をつくり出したり、時おり紗幕に描くのと同一の主題をイーゼル上で描く場合にも、ダゲールは同業者のあいだで慣例的に使用されてきた道具であるカメラ・オブスクラを用いた。その半透明のガラス面上に浮かぶ光景を固定する方法を、彼がいつの時点から探究しはじめたかは知られていない。ただ1824年には、パリでも有名な光学器械製作者だったシュヴアリエ兄弟の店への出入りがはじまっていた。シュヴアリエを仲立ちとしてニエプスとのつながりが生まれ、両者はニエプスの技法を完成させていくことで一致し、ついにはダゲレオタイプの発明へと到達することになった。フランス政府によってこの技法が買い取られてから、ダゲールは折にふれてその制作方法のデモンストレーションを行い、カメラや手引き書を供給していくための手はずを調えることに携わった。しかし、自分の発見に改良を加えることに関しては、他の人たちほど積極的ではなかった。彼が好んだのは、ブリニシュル=マルヌの自宅内に舞台的な効果を描き出すことの方であり、また、その地の教会で堂内の祭壇の背後に大画面のだまし絵的な遠近感をもつ壁画を描いてもいる。そこで彼は、家族や風景を写した少数のダゲレオタイプをつくっているけれども、さらなる発見が彼の仕事場から生まれてくることはなかったし、1839年から死の年の1851年までのあいだに彼の芸術が発展を見せることもなかった。総体としてダゲールが、この新しい表現媒体を用いてつくりあげた作品には、ピクチャレスクでありつつ迫真性をもつ場面を描いてきた画家としての訓練と経験からの影響があらわれている。現存している彼の最初期の金属板の画像は、石膏製の静物を撮った1837年のもの(図27)だが、そこにはロマン派の芸術家にとって親しい主題が見られ、それは彼が繰り返し立ち返った主題でもあった。こうした作例、ならびにパリやブリで撮影された眺めには、明暗のバランスに対する感受性、質感を対照させる感覚、観る者の眼を画面に導くように各要素を対角線上に組み立てていく構図法への知識が示されている。しかしダゲールの手になる画像一ヘルムートとアリソン・ケルンシャイムによれば19)、およそ36点ほどのプレートのどれからも、この新しい画像形成の媒体に秘められた様式上・主題上の可能性をめぐって、彼が何か別な感触をつかんでいたと見るのは難しいのである。