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無き影
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写真家にとってデジタル・イメージとは、一言で言って「痕跡なき像」である。写真の像とは、光によって作り出された痕跡だ。足跡や日焼の跡と同じように、それは対象と物理的なつながりを持っている。絵画や言語といった他の記号形式と写真が異なる最大の点は、この対象との物理的関係にある。たとえばいわゆる証拠写真と呼ばれるイメージが、法廷で力を発揮するのも、写真が対象と物理的なつながりを持っているという一点にかかっているはずだ。過去のある時点における存在が、光学・化学的痕跡として記録されているからこそ、存在証明としての意味をもつのだ。

ところがデジタルイメージには、このような物理的痕跡はない。したがって、デジタル化された写真はいくらでも加工がきく。すでにデジタル処理された写真は、報道の領域でかなり広まっている。報道写真をすべてデジタルへと、撮影から印刷までシステムごと転換してしまった新聞社も出てきている。おそらく写真が証拠写真として司法上有効であるのは、おそらくあと数年ではないだろうか。

デジタル化、すなわち写真の物質的基盤がアトムからビットへと移行するとき、問題になるのはこの「痕跡」なのだ。たとえば写真術が生まれてこのかた親しまれてきた「ネガ」というものは、デジタルデータのなかに居場所を持たないだろう。「ネガ」というヴィジョンがなんだったのか解明される前に、ネガを忘れてしまうかもしれない。同様にデジタルイメージの世界に「暗室」は必要ないだろう。暗闇の中で液体のなかから像が浮上するという「暗室」の経験は、やはり「痕跡」の時代のものだ。したがって「潜像」が「現像」されるという写真家にとって日常的な現像のプロセスも、過去のものとなる。

最近、かの有名な「影をなくした男」という話を読み返してみて、この話が「痕跡」と人間との関係を描いものに思えて仕方がない。アーデルベルト・フォン・シャミッソーがこの物語を書いたのは1813年、ベルリン近郊の小さな村に滞在していた折だったという。幸運の袋と引き換えに影を手放したペーター・シュレミールの奇妙な物語は、当時はいくぶんのリアリティを持っていたに違いない。というのも、19世紀の始めはまだ影絵芝居やシルエットによる肖像画が、今日よりもよっぽど親しまれていたからだ。影絵芝居がリアリティを失うのは、この直後1830年代末に写真術が発明されてからだろう。写真こそは、人間の影を紙の上に固定する魔術だったのだから。

それから150年後、デジタルイメージという幸運の袋と引き換えに、わたしたちの写真術は、物理的痕跡を手放してしまった。わたしたちはすでに影無きイメージの時代に生きているのである。そのことに感じている、なんとなく不安な気持ちは、どうもペーター・シュレミールの不安と通じるような気がするのだ。

美術学部情報デザイン学科
港 千尋

「影をなくした男」の原題と作者名:
Peter Schlemihl's Wundersame Geschichte
Adalbert von Chamisso


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