上野毛キャンパスの沿革

本学の前身である多摩帝国美術学校の校舎は1935年、電鉄会社などによる田園都市開発が進んでいた世田谷区上野毛に建設された。田園風景のなかの新校舎は、美術学校らしい斬新でモダンな設計であった。設計者の今井兼次教授は、総合芸術としての建築を手づくりで実践した人で、自ら学生や職人と一緒に細工をし、彩色をした。

しかしながら、1941年に太平洋戦争が始まり、一九四四年に校舎は海軍技術研究所に接収され、翌年5月24日の空襲により焼失してしまった。

終戦後の授業再開は、溝の口にあった元軍需工場の建物を借用して、30名の学生により始まった。戦災によって焼失した上野毛校舎のなかで唯一焼け残った図案科棟は、老朽化していたとはいえ美しさと伝統をうかがわせるには十分であった。1950年から始まった戦後の復興は、この焼失した校舎の再建から始まる。資金、資料、見通しのすべてが不足するなかで強行されたこの計画は本学建築科講師と数人の卒業生が手伝い、1954年に、完成した。

戦後の学制改革を契機に、本学は大学設置基準に基づく、大学建設を開始した。戦後に復旧した木造校舎は、次々とコンクリート建築に建て替えられることとなった。1953年大学新設のシンボルとして、講堂が真っ先に着手されたが、工事は遅々として進まず、講堂一棟の完成に五年を要した。一九五二年資材不足と財政難の時代に復興された木造本館は、老朽化も早く被災の面影が暗く残されていたが、新設の本館はコンクリート造りの力強い外観を得て、1960年に完成した。

さらに1966年、木造校舎二棟が除去され、L・R棟(現在の二号館)が完成した。この実習棟の完成で、上野毛キャンパスの建設計画は彫刻実技教室を除いて完成した。以後、1974年に美術学部の八王子キャンパスへの移転が完了するまで、大学院、美術学部の授業は全てこの上野毛キャンパスにおいて行われていた。

1989年、社会人への再教育や、生涯教育の気運が高まるなか、わが国初の美術系夜間学部である美術学部二部が上野毛キャンパスに開設された。また、同年3号館が落成する。勤労者学生が多く在籍する夜間学部の要請に応えるためには、都心と近接したキャンパスが必要であるが、上野毛キャンパスは銀座、青山、渋谷などの勤務地域から至近であり、かつまた世田谷、目黒、太田、品川の各区に加え川崎、横浜など、首都南西部に連なる広大な住宅地にも接しており、好適な立地条件に恵まれている。

現在、上野毛キャンパスには、多数のマッキントッシュをはじめ、最新のプリプレスシステムまでそろえた各種のコンピューター・ルーム、テレビ局級の高度な映像機器を装備した映像スタジオと編集・録音・素材変換室、500人収容の劇場と総鏡張りのダンス・スタジオ、またAV教室をはじめ、写真スタジオ、多数の絵画アトリエと工作工房などが用意されている。



八王子キャンパスの沿革