浅岡信夫 []
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1899年(明治32年)12月15日
広島県広島市大手町(現在の広島市中区大手町)のパン屋「むさし屋」の長男、現在の東京都中央区築地に育った。
旧制・暁星中学校(現在の暁星高等学校)に進学。旧制・海城中学校(現在の海城高等学校)を卒業
旧制・攻玉社中学校(現在の攻玉社高等学校)出身で後の日活俳優広瀬恒美とは学生相撲のライバルであった。
中学在学中は相撲部でならし、学生横綱
早稲田大学に入学 早大在学中も陸上競技で学生記録を作る
1920年(大正9年)
広島市の広島高等師範学校で行われたアントワープオリンピックの中国予選に、投てきの広島代表として出場した。
同年、極東選手権のやり投で優勝した。
1925年(大正14年)
早稲田大学卒業後は暫く会社員勤めをしていたが会社が倒産。鈴木伝明あとの新人を探していた日活に相撲部出身のスポーツマンとして招かれ日活大将軍撮影所日活新人スターとして売り出された。
19本の映画に出演、岡田嘉子と共演して人気を集め一時代を築いた。
身長177.3cm、体重93Kg[1]。身長180cm、体重90Kg
1927年(昭和2年)
人気小説『海底軍艦』シリーズを映画化した内田吐夢監督の『東洋武侠団』で二人は「陸の王者・浅岡信夫」「海の王者・広瀬恒美」としてダブル主演し、映画は大ヒットした。
日活で「阿里山の侠児」というふしぎな題名の映画が封切られた。当時、チャンバラと「情話」と他愛のない喜劇だけが主流になっていた日本の映画界で、台湾ロケまで敢行して作ったこの映画が、極めて「異色作」だった原作者には「岩崎秋良」
内容は、阿里山で「蕃童教育」に生涯を捧げるクリスチャンの青木と、彼を慕い、尊敬しているツォー族の青年アオイが主人公である。青木は、阿里山の付近で突如発見される石油のトラブルに巻きこまれて、日本人に反感を持つバットに殺されてしまうが、青木の娘信子は、父の意志を受け継いで、独り阿里山に残る。ある祭りの夜、バットは山にある昔からの「迷信」を逆用して、日本に反逆を企てるが、アオイは自らの身を犠牲にして、「首狩り」の悪風を改めさせる。いわば現代版の「呉鳳」ということであろう。青木には小杉勇、アオイには浅岡信夫、信子には三木本英子が扮している。
1928年(昭和3年)
広瀬を主演に2作を監督している。1930年(昭和5年)には俳優業は引退した。
1931年(昭和6年)
『映画国策之提唱』を著
1932年(昭和7年)
渡米を経て、映画国策確立の行政機関の設置を主張。情報局の幹部、政治家とも交際をもち「映画国策建議案」の成立に牽引、
1933年(昭和8年)
北とともに日本国策映画研究所製作を開設。
国会に提出され可決した。この法案は、のち館林三喜男らの尽力により
1935年(昭和10年)
多摩帝国美術学校(現・多摩美術大学)の創立に参画
1936年(昭和11年
日本国策映画研究所製作の映画『国防全線八千粁』をプロデュース、日活が配給
1939年(昭和14年)
映画法の制定に繋がっている。森矗昶の弟・岩瀬亮や北一輝の弟・北昤吉と、とりわけ親しく
1946年(昭和21年)
プロ野球球団・東京セネタースの身売り話を小西得郎と共に仲介。東急社長・五島慶太に野球を薦めたのは強羅ホテル支配人・猿丸元の友人浅岡で、広島一中時代の親友で、東急の専務黒川渉三を通じて五島に会い、話をまとめた
浅岡は児玉誉士夫と親しい右翼の辻嘉六の懐刀といわれていたという。
1950年(昭和25年)
日本初の女子プロ野球創設にも関与している。
1947年(昭和22年)
日本自由党から参議院議員選挙に立候補し当選、吉田内閣で厚生政務次官を務めた。
1949年
広島平和記念都市建設法は、浅岡の発言がきっかけで検討が始まったものという。
1968年(昭和43年)11月12日
脳出血のため死去した。満68歳没。

戦後は政治家として参議院員、厚生省政務次官を務めた。昭和43年11月12日没。
<主な出演作>
「母校のために」「覇者の心」「正義の強者」「勝利の前に」
写真は「阿里山の侠児」より

 

1899年(明治32年)12月15日
広島県広島市大手町(現在の広島市中区大手町)のパン屋「むさし屋」の長男に生まれ、現在の東京都中央区築地に育った。
旧制・暁星中学校(現在の暁星高等学校)に進学。
旧制・海城中学校(現在の海城高等学校)を卒業後、早稲田大学に入学した。
この他、旧制・広島一中(現・広島国泰寺高校)に在籍したと書かれた文献もある。
中学在学中は相撲部でならし、学生横綱だった。柔道、剣道も高段の腕前で運動神経は抜群だった。
早大在学中も陸上競技で学生記録を作るなど、目覚しい活躍をする。
1920年(大正9年)
広島市の広島高等師範学校で行われたアントワープオリンピックの中国予選に、投てきの広島代表として出場した
同年、極東選手権のやり投で優勝した。
1925年(大正14年)
大学卒業後、相撲部出身のスポーツマンとして見込まれ、日活大将軍撮影所に入社、日活新人スターとして売り出された。
19本の映画に出演、岡田嘉子と共演して人気を集め一時代を築いた。
旧制・攻玉社中学校(現在の攻玉社高等学校)出身で後の日活俳優広瀬恒美とは学生相撲のライバルであった。
1927年(昭和2年)
人気小説『海底軍艦』シリーズを映画化した内田吐夢監督の『東洋武侠団』で二人は「陸の王者・浅岡信夫」「海の王者・広瀬恒美」としてダブル主演し、映画は大ヒットした
1928年(昭和3年)
広瀬を主演に2作を監督している
1930年(昭和5年)
俳優業は引退した。
1931年(昭和6年)
『映画国策之提唱』を著し
1932年(昭和7年)
渡米を経て、映画国策確立の行政機関の設置を主張。情報局の幹部、政治家とも交際をもち「映画国策建議案」の成立に牽引
1933年(昭和8年)
国会に提出され可決した。
1939年(昭和14年)、この法案は、のち館林三喜男らの尽力により映画法の制定に繋がっている。森矗昶の弟・岩瀬亮や北一輝の弟・北昤吉と、とりわけ親しく
1933年(昭和8年)
北とともに日本国策映画研究所製作を開設
1935年(昭和10年)
多摩帝国美術学校(現・多摩美術大学)の創立にも参画した。
1936年(昭和11年)
日本国策映画研究所製作の映画『国防全線八千粁』をプロデュース、日活が配給して公開している。 
1946年(昭和21年)
プロ野球球団・東京セネタースの身売り話を小西得郎と共に仲介。東急社長・五島慶太に野球を薦めたのは強羅ホテル支配人・猿丸元の友人浅岡で、広島一中時代の親友で、東急の専務黒川渉三を通じて五島に会い、話をまとめたという。浅岡は児玉誉士夫と親しい右翼の辻嘉六の懐刀といわれていたという。
1950年(昭和25年)
日本初の女子プロ野球創設にも関与している。
1947年(昭和22年)
日本自由党から参議院議員選挙に立候補し当選、吉田内閣で厚生政務次官を務めた。
1949年
広島平和記念都市建設法は、浅岡の発言がきっかけで検討が始まったものという。
1968年(昭和43年)11月12日
脳出血のため死去した。満68歳没。

特筆のないものは出演作である[9]。
『母校の為めに』 : 監督阿部豊、1925年 - 林進吾役
『覇者の心』 : 監督阿部豊、1925年 - 原作・主演
『小品映画集 山峡の勇者』 : 監督三枝源次郎、1925年
『勝利の前に』 : 監督三枝源次郎、1926年
『最後の一撃』 : 監督若山治、1926年
『雪辱の日』 : 監督阿部豊、1926年
『太陽に直面する男』 : 監督中山呑海、1926年 - 朝川憲二役
『神州男児の意気』 : 監督村田実、1926年
『正義の勇者』 : 監督田坂具隆、1927年
『戦争と女性』 : 監督三枝源次郎、1927年
『阿里山の侠児』 : 監督田坂具隆、1927年
『東洋武侠団』 : 監督内田吐夢、1927年
『鉄路の狼』 : 監督東坊城恭長、1927年 - 原作・主演
『大学選手』 : 主演広瀬恒美、1928年 - 監督のみ
『熱血の魁人』 : 監督志波西果、1928年
『北極星』 : 監督広瀬恒美、1928年
『維新の京洛 竜の巻・虎の巻』 : 監督池田富保、1928年 - 西郷吉之助役
『奮戦王』 : 主演広瀬恒美、1928年 - 監督のみ
『雲の王座』 : 監督田坂具隆、1929年 - 山案内人役
『非常警戒』 : 監督阿部豊、1929年 - 金森壮八郎役
『海の祭』 : 監督伊奈精一、1930年
『国防全線八千粁』 : 監修藤原繁太郎、撮影内田耕平、1936年 - 製作のみ