杉浦翠子 すぎうら すいこ(1885〜1960)明治18年5月3日〜昭和35年2月16日
歌人。埼玉県川越の生れ。本名翠。女子美術、国語伝習所などに学ぶ。図案画家非水の妻。大正4年北原白秋に入門したが、翌年「アララギ」に転じ、斉藤茂吉、ついで古泉千樫についた。12年、赤彦門下との確執から白秋系の歌誌「香蘭」に移ったが、昭和8年「短歌至上主義」を創刊。歌集に『寒紅集』『藤浪』『みどりの眉』『浅間の表情』『生命の波動』、歌論を加えた『朝の呼吸』)、小説『かなしき歌人の群』などがある。「アララギ」の女流として情感にとんだ歌を詠んだが、のち、主知的で硬質な作風へと転じた。「寝ねがての肌に残

さて杉浦翠子は文学事典の短い項目から大きくはみ出す存在であった。
賛否両論にわかれてはいるが、派手で目立つ、気の強い女傑的存在であることは衆目の一致するところだった。

本名は翠、埼玉県川越市に1885年に岩崎紀一、サダの三女として生まれるが、1887年に父、1888年に母が死去し、祖母ミキに育てられるが祖母も死に、姉てるの嫁ぎ先、赤坂の出渕豊保方に身を寄せる。次兄の桃介は福沢諭吉の養子となり、実業家、粋人として名をはせる。
その金持の兄桃介の物質主義に反抗し、貧しくとも精神的詩的に生きようとして、非水と恋愛結婚する。
この頃の歌は情熱的で非水に身も心も捧げ、夢中である。白秋に影響されながら、子規の流れを引く「アララギ」に入り、斎藤茂吉、ついで古泉千樫に弟子入りし、歌作に没頭する。
この時代女性が自分の恋や理想や反逆の想いを思い切り発表できるのは短歌であった。
与謝野晶子以後、女流歌人の作品にははっとさせられる大胆な表現が多い。
その中でも杉浦翠子の作品はもっとも情熱的でありながら、一面いやらしいナルシシズムはなく清潔であり、目立った。
 

自己主張が強くわが道を行く翠子は「アララギ」の主流の島木赤彦一派から排斥され、悩んだ末、歯に衣を着せぬ鋭い反論を書いてアララギを脱退し、白秋系の歌誌「香蘭」に移る。次第に花鳥風月でなく、社会状況全体を歌おうとしてひとりで「短歌至上主義」を発表、非水の装幀で烈しい論陣を張り、硬質の短歌を発表する。
多摩美大の創始者北玲吉の兄、「国家改造法案」の北一輝の影響もあり、多くの自由主義者の左傾と異なり右傾して行く。
そういう思想的限界があり、戦争中の活躍は停滞している。
 

戦後、翠子の歌も立直り、新しい境地に達し、「日の黒点」「生命の波動」「一百光年集」などの詩集を書き、非水と共に詩画展を2、3回行い、また非水の仕事は芸術院恩賜賞はじめ大展覧会も行われ、その先駆的意義が評価されるようになった。


岩崎勝平の絵 1905-1964