火の見櫓

  詠み人知らずの鉄細工  

  日本の田園風景にとって無くてはならない存在  

2018年08月現在 1166件収録

都道府県別の中の市町村は最初が県庁所在地、その後はほぼ北から順番。

印は、珍しいか、美しいか、 などお薦め物件。NEWは今回の追加更新物件。

所在地に番地を記載しているが火の見櫓に番地がないことも多く、

およその目安。

 

●火の見櫓

 全国各地に散在する火の見櫓、減ってはきたものの、まだたくさん見ることができる。これらは規格品ではなく、地元の鍛冶屋さんが工夫しながら作っていることが多い。 現在も全国に多数の火の見櫓が残るが、ほとんどスピーカーの設置とホースを干す場所としての機能しか残されていない。しかし景観上は集落の中心にそびえ、安心感を与える施設でもある。

えめな素人デザイン

  火の見櫓はノスタルジーという視点でとらえられることが多いが、デザインという視点で見ると工夫の跡がたくさん見えてくる。屋根と手摺が付いた火の見台、はしご、ブレース、すべてぎりぎりの機能の中でなお、その形を決定するためのデザイン行為があり、控えめながらそれを楽しんできた様子がわかる 。

●バリエーション

 どれも似ているようで、よく見ると様々なバリエーションがある。 半鐘は火の見櫓には無くてはならないものだが、近年はサイレンや防災スピーカーなどが主力になっている。火の見櫓の機能は単純であるが、形態としては梯子だけの二本脚タイプから三本脚、四本脚と多くのバリエーションが存在する。ハシゴと構造体を共用する工夫が見られたり、ひたすら手すりの装飾に走ったり、微妙ではあるが造り手の意気込みとその方向性も見えてくる。無骨で野暮ったいデザインも、はっとするほど洗練されたデザインもある。 標準設計が存在するわけではなく、地元の鍛冶屋が制作しているため、形態はその制作者の好みとセンスに負うところが大きい。また鍛冶屋のテリトリーは必ずしも市町村の境界とは一致せず、形態の差が鍛冶屋のテリトリーの境界を示している。

●火の見櫓の歴史

慶安3年(1650)幕府直轄の「定火消」が作られ、江戸城と武家屋敷の防備にあたり、万治元年(1658)から火消役が火消屋敷に常駐するようになり、このときに作られた高さ5丈(約15m)の火の見櫓が日本最初と言われている。見張り番が常駐する火の見櫓は後の消防署に置かれる火災監視塔「望楼」へと発展する。一方、町火消しは消防団へと発展する。消防団は全国に2400以上存在する市民によるボランティアの消防組織で、その火の見櫓は半鐘を鳴らし、火災を知らせる機能が中心になり、ポンプ小屋とセットになっていることが多く、人が常駐する施設ではない。

 明治初期の火の見櫓は木製のはしごと半鐘だけの簡素なものが多かったが、明治末ごろから鉄製の火の見櫓が造られるようになる。しかし昭和14年以降、消防団は警防団になり、空襲警報も鳴らすようになるが、鉄の供出により取り壊されたものも多い。戦後間もなく再建されるようになり、昭和30年代後半にかけて急増し最盛期を迎える。

●所在・記録

  消防庁が設置を決めるわけではないので、全国に均等には分布していない。どこにでもあるようで、地方によって多いところと少ないところがあるようだ。 今まで調べた範囲で、多いのは長野県、山梨県、静岡県、栃木県、茨城県 といったところ。何がそうさせているのかはよくわからない。今後も続けたいテーマである。