010 地震と民家    /インドネシア・ニアス島

インドネシア、スマトラ島の西にあるニアス島周辺は地震多発地である。この島の民家は独特な構造をしているが、長い歴史の中で地震への対応を身につけてきたと思われる。

 

上は ニアス島北部、グヌンシトリ近郊、シワヒリ村の民家で、楕円形平面を持つ高床式の床下には太い斜め材が多数見られる。一見筋交のように見えるが、柱の根元とはつながっていない。筋交は長方形に斜め材をはめて変形を防ぐものであ り、これでは筋交として働かない。筋交の構造的な意味をわかっていないのかと思ったが、よく見るとこの斜め材は意図的に柱とはつなげていない。これは、筋交ではなく、免 震ダンパーなのではないかと思えてきた。つまり地震で限界を越えた力がかかると斜め材の足元にある石が土の上をすべり、ゆっくりとブレーキをかける。もしこれが柱とつながって塊になっていたら限界を越えたときに崩壊してしまう。最後の最後まで原型を保とうとするのではなく、限界を越えると、傾くことは許容しても崩壊を防ぐという次のステップへ移る。自然界の力に勝つのが目標ではなく、はかり知れない力からの段階的な逃げを用意している ように思える。 下の写真で斜め材の礎石が明らかに柱の礎石と離れていることがわかる。斜め材の上には左に見えるように石の重しを乗せて地面を押しつけて、はじけないようになっている。金物を使わない免 震構造 と言えそうだ。

 

下の写真は ニアス島南部、オラヒリファオ村。海からかなり高いところにある。ニアス島南部の民家はまた異なり、隣家と接した独特な集落を構成している。多くの集落が高い丘の上にあり、中央には異様に広い道のような広場のような空間がある。集落へのアプローチは最後が階段になっているため、魅力的なこの広場には車が入れない。各住居前のプライベートなゾーンと中央のパブリックなゾーンがゆるやかにつながっていて、実に心地よい空間になっている。

なぜこんな山の上に 集落を作ったのだろうか。外敵から守るためということも考えられるが、この理由のひとつが津波対策ではないだろうか。1883年スンダ海峡の島が大噴火し、大津波で被災した集落もあり、現在の集落の多くはこの地震後の再建らしい。2004年、2005年と続けて大きな地震と津波に襲われているが、被害の多くは低地のレンガ造やコンクリート造の建築で、それらに比べると丘の上の集落の被害は少なかった。

集落の中心にあるこの 空間は防災広場なのだろうか。これだけの広さがあれば、住民すべてが安全に避難できる。また長屋のように連続する町並みでは隣家との間に普段は開けない扉がある。まるで非常用通路である。ここを開ければ家から家へ、集落の端から端まで通り抜けられる。度重なる地震と津波から長い年月をかけて安全に住める形態に発展していったのだろう。

下写真はバウォマタウロ村。大通りのような広場のような空間をはさんで民家が並ぶ。 村にはネットカフェがあったり、衛星放送のパラボラアンテナが並んだりしてはいるが、この伝統的な民家に住み続けるのは、ときどき牙をむくここの自然と一番うまく付き合える建築だからなのかもしれない。 またテレビの普及に対して冷蔵庫はほとんど普及していない。これは災害時というより日常的に電力が安定していないからだろうが、冷蔵庫に頼らずに成立する食生活がかえってうらやましい。

釜石、石巻、南三陸などの津波の映像を見ていると、巨大な堤防で万全の備えをしていても、それを軽々と越えてしまう自然の力に、言いようのない無力感を感じた。地震や津波はがんばって打ち勝つのではなく、あるときは身を任せ、あるときは逃げ、 無理なく付き合いながら、命を守ることしかできないのかもしれない。