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1. 陶プログラムの30年
 1-2. 精神の創作としての美術工芸教育

■ 中 村

 つぎに、お渡してあるレジュメに従ってお話を進めていこうと思います。
 ここに「美術工芸教育とは左の目的を探求する精神の所産或いは精神の創作」と書きましたが、「目的」というのは学校へ入ってきた目的、どういうふうに彼らを鍛えていくか、育てていくかということですね。課題から出してきた学生の仕事に即して、「どういう仕事で生きるか」「何をどうARTにするか」「ARTにどうかかわるか」、あるいは、やや工芸っぽく「何を何のためにどうつくるか」「暮らしのかたち」といった類の話をしながらやっているわけです。
 いまや僕は古老の語り部的な役割を任じていこうと思っています。ここへやってくる学生は、はじめから陶づくりに関わろうとする人もかなりいるようになりました。全部がそうなったら、僕とか井上君は食い上げますから、まぁこの辺で良いかという程度のパーセンテージです。他に彼らがどういう職業に就いているかというと、広くものをつくることに関わって、デザインする、プロデュースする、ディレクトする、そういうことでしょうか。それに対応する力を、4年間、粘土を毎週さわることによって、つけていかれるという感じを受けています。
 もうひとつは、文学部でもない、経済学部でもない、ちょっとひねって美術大学という若者――彼らのことを通過客とかトランジットとかいうことができますけれども――彼らを日本国の文化を分厚くしてくれる人と捉えて、そういう人にも手心を加えず、陶のつくり手になろうという人と同じトレーニングをやっています。「感性を鍛える或いは、コンセプトを探る」というのは、「工芸」を狭い意味で捉えないで、感性と土という実材と手を中心にしたトレーニングの場だと広く考えているということです。

 さきほど述べた「目的」をどう実践するかは、カリキュラムをどう構成し、運用するかにかかっていると思います。それが教師の役割であり能力というものでしょう。その際、僕らが最も陥りやすいことは、目的達成のために手段としてのカリキュラムを組むんですけれども、そのカリキュラムをこなすことが自己目的化して、本来、手段であるはずのカリキュラムが目的になり、教育が硬直化することです。
 手段を目的に履き違えないようにいつも運用法の軌道修正をしなければと思っています。そのためには、ここにも書きましたように、「何をものづくりの基礎と考えるか」「現状や社会や美術の世界への批判」「いまの時代をどう読むか、どう読み取るか」といったことをおこたりなく考える。これによって、いまいった美術教育は可能になると思っています。

【多摩美の陶作品・2】
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