トップ多摩美の陶教育、こう考えて実践(目次)> 1. 陶プログラムの30年[1-3]
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1. 陶プログラムの30年
 1-3. 何が基礎なのか? 基礎は時代とともに変える
■ 中 村

 つぎに、陶教育や美術教育において最も大切なこと、あるいは教育に携わるうえで最もおもしろいと僕が思っていること、それは、「何を基礎と考えるか」ということです。
 やきものの場合、これをよく世の中では、土揉み何年、ロクロ何年といういい方をしてきました。確かに、手工業の時代、器とか実用向け生活道具をつくることがやきものの本流でありえたときには、それがやきものの基礎と考えられると思うんです。 けれども、いま、そういう役割が工芸ややきものや、ものづくりに求められているわけではありません。ですから、何を基礎と考えるかが、工芸、やきもの、ものづくりのカリキュラムを組むうえですごく大切なことだと考えています。何を基礎と考えるかを、カリキュラムをどう運用するかを通して、学生たちに身につけていってもらう。世の中でいわれている基礎を鵜呑みになどしないことです。これがいまの時代のものづくりの基礎ではないかということを自分たちで工夫しようとしています。これのあたりが多摩美のカリキュラムにかかわる方針だということができると思います。
「何を基礎と考えるか」ということについての思考材料を、レジメに4つほど書きました。

 ひとつは、時代をどう読むかということ。最近、僕がすごく気になっていることは、生産構造とか文明の構造、あるいは社会構造の変遷。例えば具体的にいうと、手工業の時代から工業化時代、つづいて高度工業化社会があって、いまは情報化社会という、大きくいって3つの変遷をしている。そのなかで、手仕事の時代ですと、やきものっていうのは生活のなかの道具でしたから、さっきのロクロ土揉み何年といったようなアプローチでよかった。
 しかし、情報化時代になったとき、その手仕事の時代や機械時代と同じ考え方でいいということはあり得ない。情報化時代のなかでどう存在させられるか、どう存在させれば、自分たちがやっていることに意味を生じさせることができるか。工芸学科陶プログラムとしては、教師が過去、現在を読み取って、将来像を推量する。そして、それに従って教育を考えようとしているということになるかと思います。

 もうひとつ、批評性とか批評意識というのは、すごく大切だと思っています。現状への批評、あるいは時代への批評は、教育においてもすごく重要です。では何を批評するのか、何を問題と考えるのかということでしょう。工芸、あるいは陶をつくるということから考えれば、まずは陶芸自身が対象になりますし、それを囲む伝統工芸、人間国宝がなんぼのもんやという視点も必要になってきます。また、絵画彫刻といわれている西洋から入ってきた上位の美術と、その上位の美術以外の工芸との関係。それをどう考えているのか、考えようとしているのか、近い将来それはどう変わっていくのが望ましいかといったことを批評する目を持たねばお話にならないと思います。 同時に、クラフトとかIDとか、美術やアート、現代美術、モダニズム、西欧と日本、東洋と日本、産地のやきものと東京で発信することの意味……といったことがテーマになるかと思います。

 僕らは最近、現代陶芸とか陶造形という言葉使いますが、その先輩格に、京都あたりから発信してきたオブジェ焼きというものはあります。見ようによっては、それさえも自己反省しなければならない。というのは、それらは彫刻のあと追い的であったり、あるいは朝日陶芸展のグランプリなどに見るような、土によるアクロバットじみ、素材をいじくる感じ――まあ、それひとつの特徴としてよいかとは思いますが、あれでは同時代の本流にはなりえれないなぁという感じで、同じ仲間として自己批判しています。

【多摩美の陶作品・3】
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