トップ総括●これからの工芸とその教育について(目次)> 3. 新しい造形教育に向けて[3-2]
<< 前ページ
 
3. 新しい造形教育に向けて
 3-2. やきものを多面的に成熟させる
■ 中 村

 やはり育てるほうの泣きどころは、新たな価値観のものをやればやるほど、生活が成り立ちにくいということですから、その手のお話にはすごく揺さぶられるんですけど、最初の回で僕が話しさせてもらったとき、いくつかそういうことについても述べたんですよ。

 簡単にいえば、5年後10年後に潰される作家、消される作家が多い。そうでなく、世間に消されないですむような力のある人を育てようという姿勢ではいますけど。

 それから、ここの教育は、やきものづくりに関わろうとする人のみには絞っていなくて、もっと広く、つくること、デザインやプロデュース、ディレクトをする人、それからもっといえば、美大通過客――トランジットなんて、ちょっと皮肉にいっていますけれども、文化を分厚くする人として重要な、受け手になってくれる人なども想定しています。買う人とのつながりをつくることが、抜けているんだけど。

【多摩美の陶作品・21】
  ■ 井 上

 多分ここでも、お話の大学と同じことをやっていると思いますよ。陶芸の作家をここから数名、出すことが求められているとすれば、やはり、大学院というエリート教育のような形になると思いますけど、そこの部分もケアしているし。トランジットというか、受け手の部分もケアしているし。考え方としては、転向していく人のために、ここで4年間学んだことが、他の職域のジャンルでもじゅうぶん有効に機能することを目論んでいますし。

  ■ 尹

 森さんのお話されたように、つくり手以外の職能への意識が学科として独立できるということが、建築業界ならではの、層の厚みだと思いますね。意識は同じであっても、まさかこの学科でも、そこまでの独立はできない。

 というのは、日本にはこんなにたくさんのやきもの愛好者がいるにもかかわらず、そういったことが意識化されてこなかった陶芸というものの問題だと思います。日本人は、細やかな感受性で陶芸というものをエンジョイしているにもかかわらず、そこに一本の脈しかないように錯覚させられている。でも文芸の世界で、大衆小説とか純文学とかあるように、大衆陶芸とか純陶芸とか、それに類する概念があってもよかった。

 いま、昭和歌謡を楽しむように、例えば院展系の作品をエンジョイしてみたりとか、それぐらいフラットに楽しめる文化があってもいいのに、残念なことに、建築の世界のように多面的な文化として成熟していない。でも反対に考えると、それは成熟すべき余地がたくさんあるということで、やきものを取りまいてきた情況を冷静にながめていけば、これからやきものを楽しんでいくうえで、未開拓な領域がいくつもでてきて、そこが新しい価値で埋まっていくことを楽しめるんじゃないかなという気がしています。

  ■ 冨 田

 明るい見通しで盛りあがったところで残念ですが、お時間でございますので、そろそろ終了とさせていただきます。ありがとうございました。

 

 トップ総括●これからの工芸とその教育について(目次)> 3. 新しい造形教育に向けて[3-2]