関東大震災から見る、伊東忠太

後藤 丈侍

作者によるコメント

明治・大正に渡って活躍した奇想の建築家、伊東忠太には大抵どちらかの解釈が為される。国粋主義者か、自由人か。建築に置き換えれば、明治神宮か、築地本願寺か。はたしてこの区分は正しいのだろうか?私は彼の思想をより深く探るため、「関東大震災」という大きな出来事を軸に置いた。震災が起きれば、建築家の責任と行動力が問われる。震災後の伊東の建築・言論を辿れば、彼の国家や創作に対する基本スタンスが見えてきた。

担当教員によるコメント

伊東忠太(1867-1954)は西洋建築学に対して、日本建築の独自性を本格的に見直した第一人者。法隆寺が日本最古の寺院建築であることを立証し、それまで「造家」と訳されていたarchitectureを「建築」と規定し直したことでも名高い。明治維新を生きながら西洋一辺倒ではなく留学先もアジア、インド、トルコを主体的に選択した点に、妖怪趣味をも持ち合わせていたこの人物の異能ぶりがうかがえる。後藤丈侍の伸びやかな文章はこうした伊東の姿を生き生きと伝えている。中でも、関東大震災の復興時に伊東が打ち出したポジティヴなバラック論に着目したことは非凡と言えよう。後藤は言う。「伊東はバラックを、自己表現の新たな手段として見ていたのだ」(p.11)と。実際、伊東はバラックを仮初の醜悪な構造物ではなく、そこに特有の美を打ち出そうとしたのである。

教授・本江 邦夫