TAMABI NEWS 87号(日本画の伝統を超えて自由な発想が生まれる理由)|多摩美術大学
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思います。自分の中に眠っていた感性に気付き、作家として創作活動を続けてこられたのは、そうした先生たちの指導のおかげです」 武田先生の2年後輩にあたる加藤良造先生も同様に、「自分が何をやりたいのか。まずそれを考えさせることからスタートする授業でした。興味があるところを探して、どう表現していくか。自分で道筋を立てながら描いていきましたね。たとえそれが日本画の技法を逸脱していたとしても、表現の中で必要と判断できれば認めてもらえる。面白い方を評価する雰囲気が当時からありました」と語ります。 八木幾朗先生は高校時代に横山操の作品に魅了されたことがきっかけで多摩美に入学したといいます。「直接横山先生の指導を受けることはかないませんでしたが、『花の画家』とも呼ばれ、生涯において自然をモチーフに作品を描き続けた堀文子先生のクラスに属し、加山先生そして上野先生にも教えを仰ぎました」 八木先生が在学した1970年代後半は、横山亡き後の多摩美日本画で加山が奮闘していた時期。学生と一緒に夢中になって制作する中で、初めて『裸婦』を発表し、それまでの日本画にも、西洋画にもない、加山ならではの線の美しさが話題となりました。また、加山ばかりでなく、当時の教員全員が作家として最も充実していた時代でもあり、多摩美で共に過ごせたことが、何よりの「財産」になったといいます。 加山又造と横山操が多摩美の日本画教育に携わった時代に本学に在学し、直接二人から薫陶を受けた『タマビDNA』第一世代である本学名誉教授の米谷清和先生は、今回のDNA展で上映された動画インタビューの中で、教育者としての二人を次のように振り返ります。「二人とも作家を育てようという信念は同じでした。横山先生は、せっかく美大に入ったのだから卒業したら教員になれるくらいの知識は持たせるべきだという考えの下、率先して基礎的なことを実践して見せるタイプの先生で、一方、加山先生は、自分が教師をやっている間に一人すごい絵描きを育てることこそが教育者としての価値であり、使命と考えていたように思います」 学生を引っ張っていこうとする横山と、才能ある者は自ら伸びてくると考えていた加山。両者の教えを享受しながら、学生たちは作家としての感性を磨き、人間としても成長していきました。 「講評会で評価が分かれた時など、二人は延々と日本画の伝統を超えて自由な発想が生まれる理由議論を繰り返すわけです。時には芸術論にまで発展し、とことん熱くぶつかり合っていました。本心をさらけ出せたのは、二人の間に強い信頼関係があったからでしょう。価値観が違うのは当たり前ということを、あえて学生たちに見せていた。自由に言い合える面白さが、学生の気質や日本画専攻の気風に受け継がれているのではないか」 同じく『タマビDNA』第一世代であり、2016年まで本学で務めた名誉教授の中野嘉之先生も、DNA展の動画インタビューのなかで当時のエピソードを次のように語っています。 「よく横山先生に『頑張れよ』と声を掛けていただきました。どうにもならなくなってしまったときに、タイミングよく背中を押してくれるようなところがありましたね。情が深い先生でした。逆に加山先生は、谷底に突き落とすようなところがありました。谷底から自力ではい上がることができたのは、厳しさと優しさの両方の支えがあったからこそだと感じています」 作家としての経歴は対照的でありながら、権威に寄りかかることなく個の力を磨くことを重視し、ひたすら「絵描きとして大切なもの」を示し続けた加山と横山。上下関係に縛られることなく、時勢に左右されない教育の在り方は、自由な創造性に満ちた本学の日本画教育へと発展し、現在のカリキュラムにも受け継がれています。作品指導をする中野嘉之(前列中央)と米谷清和(前列右から2番目)07『タマビDNA』第一世代の証言教育者としての加山又造と横山操TAMABINEWS

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