2018年度入学式 学長告辞
2018年4月4日 八王子キャンパス TAUホール
本日、ここに多摩美術大学美術学部の入学式を挙行するに当たり、学長として、心からのお祝いの言葉を述べさせていただきます。
創立以来80有余年の歴史を誇る多摩美術大学は、これまでに国内外で活躍するアーティストやデザイナーや舞台人を、また研究者や教育者を数多く輩出してきました。そうした本学の輝かしい伝統のなかで勉学と創作に励むのだという誇りをもって、そしていずれかはその綺羅星のような先輩たちが築いてきた歴史の新たなページに自らも名を連ねるのだという意欲を持って、これからの学園生活を送っていただきたいものです。
アートの道を目ざす者にとって、本学には素晴らしい条件が整えられています。皆さんの目標になるようなアーティストや研究者である卓越した教授陣、志を同じくする若い仲間たち。八王子では十数年来の取り組みで充実した施設と美しいキャンパスが完成し、上野毛キャンパスでも四年前に新設された二つの学科が、今年、初めての卒業生を世に送り出しました。本学ならではの恵まれた勉学の環境を生かして皆さんが日々成長していく姿を見るのは、私たちにとっての最大の喜びなのですが、その門出に当たって心にとめておいていただきたいことお話ししようと思います。
一つは文化芸術にとって、多様性が、ダイバーシティがいかに重要であるかということです。皆さんは最近、生物多様性という言葉をよく耳にされることでしょう。世界の各地で多くの絶滅危惧種が挙げられています。愛すべき動物や植物が途絶えないようにする。それは単に生命をいとおしむ心情だけの問題ではなく、私たちが身を置く地球環境をいかにして保全するかというより現実的な課題にもつながっているのです。
同じことは文化の世界にもいえるのではないでしょうか。地域ごと、民族ごと、宗教ごと、あるいは言語ごとの文化の多様性。また同じ地域や都市であっても、いくつもの文化が平和に共存しうるような包容力や融和性のある社会。そうした状態が維持され、肯定的に評価されるような社会の方が、お互いに違った文化を持っていて、そのことを尊重しあえるような社会との方が、より健全な社会ではないかと私は思うのです。
いや、話は逆ではないか。誰もが同じ価値観を共有し、同じ言語を話す社会、他者のいない社会の方が、よりスムースで摩擦のない、居心地の良い社会であるはずだという声が、どこかから聞こえてきそうです。たしかにみんなが同じ方向を向いているなら、余計な議論はいらないし、何をするにもきわめて効率がいいと考えられがちかもしれません。
歴史的には、また現在の世界にも、そのような国家や社会は実際に存在しています。しかしそうした単一性の文化は、本来的に誰もが同じだからではなく、むしろ抑圧と排除によって強制的に生み出されたものであることを私たちは見極めておかなければならなでしょう。他者が排除された社会にはコミュニケーションの必要はありません。コミュニケーションは、お互いに違いがあるからこそ要請されるのであって、いわば文化的な多様性こそがコミュニケーションの基盤なのです。
アートとは融和的で寛容なコミュニケーションのためのツールであると私は考えています。もちろんアートはそれ自体として重要なものなのであって、他の目的に奉仕するものではないという意見もありうるでしょう。いかにもアートの自己目的性はモダニズムの本質から来る概念ではありますが、しかしこの問題を述べるのは別の機会にします。いま多摩美術大学の門をくぐった皆さんにお話したいのは、アートこそは文化的な多様性をもっともよく反映し、またそれを保障するものでもあるということです。たとえばの話ですが、私は皆さんの年頃には、若気の至りで、日本画も洋画も同時代の絵画であることに変わりはないのだから、いずれそうした区分に意味はなくなっていくのではないかと考えていました。日本画とはこの島国の絵画の長い伝統を踏まえたものではありますが、実のところは近代になってから洋画に触れることによって一つの分野として事後的、対抗的に成立したものです。そうしたモチベーションはもはや意味を持たなくなってしまっているはずだと当時の私は思い込んでいたのです。しかし今では、日本画とは洋画という他者の文化との接触によって呼び覚まされた近代的なアイデンティティであり、それもまた文化的な多様性の果実として維持されてきたのだと肯定的に見直すようになりました。他の多くの美術大学と同様、多摩美術大学にも絵画学科に油画専攻と日本画専攻が開設されているのは、いささか大袈裟にいえば近代における他者の発見が同時にアイデンティティの覚醒でもあることを象徴するものでもあるのです。
そのことをさらに考えるなら、自己とは、自分自身とは、先験的に規定されているのではなく、ある意味では自らの内なる他者なのかもしれないという見方もありうるでしょう。19世紀のフランスの詩人にアルチュール・ランボーという早熟の天才がいました。彼は「見者の手紙」(Lettre du voyan)と呼ばれる私信の中で「我は他者なり」(je est un autre)と記しています。私はもう1人の深遠なる他者としての自分を見るというのです。最近、自分探しということばをよく耳にしますが、そんな他者性とは無縁の先験的なアイデンティティなどというものがあらかじめ自らの内に備わっているわけではないでしょう。私自身もまた多義的である、深いところに他者性を秘めているという眼差しは、詩人ならずとも、アートの道を目ざす者にとって、大いに示唆的であるはずだと私は考えています。
しかしここでもう一つのことを、これまで述べてきたことと裏腹になった問題を付け加えておかなければなりません。多様性を認めるということには、別の言い方をすれば多文化主義には、しかしある種の危険な罠が潜んでいないわけではないのです。文化的な違いを重視することは、もしそれが融和的なコミュニケーションや積極的な関心を伴わないならば、分断や不寛容な姿勢に結びつきかねない。世界各地で頻発している紛争やテロは民族的、宗教的な原理主義という不寛容の思想を背景にしていることも忘れてはならないでしょう。
幸いなことに多摩美術大学は年々、留学生の数が増え、また海外大学に短期留学する体制も拡充しつつあります。これから皆さんはグローバリズムの波にさらされながら、美術家やデザイナーや舞台人としての、また研究者としての自らの世界の実現に向けて、第一歩を踏み出すことになります。どうか本学ならではの恵まれた環境を存分に生かして、これからの皆さんにとってのかけがえのない特権的な日々である大学生活を充実したものにしてください。本日は保護者の方々も大勢お見えでいらっしゃいますが、学生たちの成長を暖かい目で支えてくださるようお願い申し上げます。本日は本当におめでとうございます。
これをもってお祝いの言葉とさせていただきます。
2018年4月4日
多摩美術大学学長 建畠 晢
掲載日: 2018年4月17日