初期の時代----技術・ヴィジョン・利用者たち 1839-1875
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アントワーヌ・クローデ
ウィリアム・ヘンリー・フォックス
・タルボットの削象

プロフィール
ウィリアム・ヘンリーフォックス・タルボット

啓蒙主義思潮を受け継いでいたタルボットの関心は、科学理論に向けられただけでなく、それを実用化していくこと、知的興味を商業上の試みと結びつけることにも注がれた。貴族の出身であり、親族と強いきずなで結ばれ、収益豊かなレイコック・アビイの領地の所有者だったことから、彼は多岐にわたる関心を結果が出てくるまで追求していくことができた。複製能力のある画像を光によってつくり出す最初のシステムを発明するかたわら、彼はまた、やがて実現されていくことになる写真術のさまざまな使用法について思いをめぐらせており、「科学と芸術が結びつくことで、それによりさらに双方の進歩が導かれていくことになろう」20〕と予言している。!800年、実父の死の直後に誕生したタルボットは、バロウ校とケンブリッジ大学で教育を受け、科学のいくつかの分野を学んでいった。当時、イギリスの大学の科学教育はお粗末なものだったが、それでも彼は数学と光学の基礎を十分に身につけ、これらの両分野は、生涯を通じて彼の興味の基本となった。その後タルボットは、ブルースター、ハーシェル、アラゴー、ヨゼフ・フォン・ブラウンホファー、オーギュスタン・ジャン・フレイネルといった内外の科学者たちの仕事をくわしく追跡し、学問的なトレーニングを重ねていく。また1830年代と40年代には、学者として研鐙を積む目的でほぼ毎年海外を旅行している。1839年になって、タルボットが1834年に着手していた写真術をめくる研究一感光物質にイメージを浮かびあがらせようという試み一に関し、彼を突き動かす出来事が起こる。その時に従事していた光学とスペクトル分析の研究を中断したタルボットは、自分の発見の方が先行していたことを立証するため、密着露光とカメラ露光の両方のやり方で1835年に制作していたフォトジェニック・ドローインクを、英国学士院で公開するのである。フランス側で発明の宣言が行われる以前には、明らかに彼はそれらの画像をさほど重要なものとは見ていなかった。それらを、より精細なディテールをもち、より短い露光時間でできあがるダゲレオタイプと率直に比較してみたことが、より大きな潜在力をもつ彼のシステムの実現につなかったのである。実験を再開させたタルボットは、ほどなくカロタイプ(この名称は「美しい」の意のギリシャ語カロスKalosからきている)というネガ/ポジ式の技法を完成させ、1841年には特許を取得している。ダゲールとは異なり、タルボットは発見内容の改良に取り組みつづけ、さまざまな可能性に思いをめぐらせ、写真製版によって画像を複製する実際的な方法を考案し、また並行して自ら600点あまりの写真を制作している。その中には、風景、都市景観、肖像などの主題が含まれていた。1850年代には、特許権を守るために、結果的にあまりうまくいかなかった法廷闘争をたたかいながら、再び理論数学や語源学の研究へもどり、また古代アッシリア研究という新たな関心を得て、アッシリア裸形文字の解読にも大きく貢献している。1877年の没後、なぜか注目されることは少なかったが、優れた成果を残したこの学究のさまざまな仕事は長く忘れ去られていた。現在も使用されつづけている写真画像のシステムを発見した他に、彼は7冊の書物と多様な科学上のトピックスをめぐる50本の論文を執筆し、12種類の重要な特許権を保持し、少なくとも8つの古代アッシリア文献の完訳をなしとげたのであった。