我々がみている現実をあてにはできません。人がみるのは、目というレンズ装置が偶然伝え、そして日常の経験によって訂正された映像だけなのですから。それは不十分であり、みるものすべてのほんとうの姿はべつなのではないか、と好奇心をもつからこそ、描くのです。[註1]                          ゲルハルト・リヒター

序 章

19世紀中期、かつての写実主義の画家たちは庶民的な風俗や地誌的なテーマの絵画を描き、それらを同時代の記録として残した。そこには作家の目を通し、現実に見えている対象を「忠実な具象」として描いたリアリズムがあった。そして20世紀末期の現代、一つの新しい感覚の絵画表現が日本にあらわれはじめた。その作家たちは現実に見えている対象を「あいまいな具象」[註2]として描き、自分の目で見た同時代の記録として残した。その特徴は映像的な絵画表現、特に輪郭線があいまいな、ぼやけたソフト・フォーカスの画面で、「ピンボケ風絵画」[註3]とも言われている。 上記のニ項目を相対的にみたとき、私は現代の「あいまいな具象」に共感を抱く。いや、あいまいな具象絵画に対する方が、よりリアリズムを感じるといったも知れない。近年、世界的に多くあらわれてきたソフト・フォーカスの表現であるが、特に日本の絵画表現において1990年代中期より台頭してきたその「あいまいな具象」を語るとき、よくも悪くも常に引き合いに出される作家がいる。1960年代から一貫して写真と絵画の問題に取り組んだドイツの画家、ゲルハルト・リヒターである。たしかに両者のビジュアル的な表面は似ている。しかしそれは形式や史観的な判断だけで確定できることなのであろうか。現代、それらのテーマについては、情報技術や通信技術なるマルチ・メディアの時代性を受けて、その画面に映る映像性という観点に基づき、多角的な視点から多くの展覧会が日本では開催された。その中でも、O美術館にて開催された「曖昧なる境界ー影像としてのアート展」[註4]は、直接リヒターと日本の作家に対しての比較を動機にし、考察を行なった展覧会であった。「…明らかにゲルハルト・リヒターになるフォト・ペインティングの影響からの一種の流行性が感じられる。それははたして手軽に仕立てられる一種の時代の"気分"を示す新しき意匠の一つにすぎないのであろうか。突然にして新たなる朦朧体の発生ともいうべきこの事Bその、C外チ定画家の表現を「良き趣味性」として、一様式として矮小化して受容し、いわば表面的に乱用することは、またしても日本近代化の悪しき面での再演にすぎない。そのような何ら意識的ではない、まさに軽薄を地でゆくような側面を否定しきることはできえないだろう。ただしここではいかにそれが日本における特殊現象であったとしても(むろんリヒターのインパクトを受けたいわば「リヒター以後」の作家は海外にも指摘できるにせよ)、それはある時代の共時的な感性としての重要な意味を見のがすべきではないだろう。」[註5] 現代の日本の作家の立場が、リヒターがそのソフト・フォーカスの表現を世界に発表した後であること、つまりリヒター以後の位置におかれているという理由だけでは、その技法の借用性や影響性を判断できない。日本の作家たちがリヒターの作り出す絵画作品の影響を直接的に受けていたとしても、あるいはそうでなかったとしても、私はそれらが同じような絵画の表現形態を持つところに、何だかの共通項や理由を感じてやまない。本論は、方法は様々であれ写真をもとにして描かれたフォト・ペインティングを軸とし、あいまいな具象としての本質的なリヒターの考察を踏ヲ、リ^ーのiと現フ日本作家とのあいまいな具象絵画を比較し、それらに内在しうるであろう共通項を探るものとする。

第1章 フォト・ペインティングについて

                                     □ フォト・リアリズム

1990年代中期に入り、画面の焦点がボケたりブレたりしているあいまいな具象絵画が日本で台頭してきた。その画面はつまり、写真撮影の時、レンズとフィルムの焦点距離がずれた時に像を結ばなくなってぼけてしまう、いわゆるピンボケの状態になっているのである。この表現方法を用いた日本の作家は数多いが、リヒターとの関係性を考えやすい作家を強いてあげるならば伊庭靖子、丸山直文、秋岡美帆、三輪美津子などがあげられる。彼らの制作方法はというと、写真に写るモティーフを描きながら同時進行的に輪郭腺をぼかしたり、色彩の染み込みやにじみを利用したステイニングという技法を用いたり、電子メディアを用いたり、あるいは焦点のぼやけた写真等のモティーフをそのまま描いたりと作家により方法は様々である。それらの作品はフォト・リアリズムとして括られ、一様にフォト・ペインティングと呼ばれている。つまりはフォEペインテ塔O(写G画)と、名の通り写真をもとにして描かれた作品である。誕生から160年あまりの機械が生み出す複製可能な写真と、キャンバスと絵筆による手の業としての伝統的な絵画が結びついたフォト・ペインティングは、もちろん今に始まったことでは毛頭ない。 1839年、フランス人のダゲールによって写真(ダゲレオタイプ)が発明されると、人物であれ風景であれ実に精緻な画像を映し出すそれは、たちまち人々の間に普及した。その現象と写真自体の技術が進むにつれ、写真はそれまで描かれ続けてきた絵画の領分を次第に侵しはじめる事となる。かつての王侯貴族が肖像画家に注文して描かせていた肖像画は肖像写真にとって代わり、肖像画家は写真という突然の来客者に、見たままを正確に描くという仕事を奪われてしまうことになった。そして写真は肖像画家の仕事を奪っただけではなく、それまでに描かれた絵画(特に名画と呼ばれるもの)にならった情景さえもピクトリアルな写真で再現してしまい、伝統的な絵画にできることは写真でも可能である事を見せつけたのである。だがしかし、当時の写真の存在は憎まれるばかりではなかった。例えば、「こんなすばらしい発明が遅かったのは何燻c念だ」[U]とドラクAは写真を謳ァ作に利用し歓迎し、また、優れたデッサン力を誇っていたアングルは「これこそ私が達成したいと思う正確さなのだ」[註7]と、写真をたたえた。少なくともこの客人は当時センセーションを巻き起こした。絵画と比べたところで、自然をそのままにくるわず写しとるという写真の優位性に対し、画家たちは自然の精密な複製ではない絵画固有の表現、いわゆる絵画の自立性や存在意義を意識しはじめるのである。1903年、ゴーギャン(Paul Gauguin 1848-1903) は知人あてに次のような意味のことを書き送った。「美術において、われわれはいま物理や化学や機械工学によって引き起こされた、うろたえつつ放浪する時を歩きだした」[註8]ここには新時代に向かう美術の不安を読み取ることことができる。このように写真の発明から、写真と絵画との愛憎の関係は続いていったのである。しかしここで私は写真と絵画に優劣をつけようとしているわけではない。当時のセンセーショナルな写真の登場を伝えているだけであり、その後の絵画の発展というよりむしろ、絵画自体の歴史的自立性は周知の通りである。 その後、20世紀を迎え、写真を全面的に利用した絵画形態があれる。1960繻繩?にあらわススーパー・Aリズムである。(この時代のフォト・リアリズムは別称スーパー・リアリズム、ハイパー・リアリズム、ニュー・リアリズム、あるいはポスト・ポップ・リアリズムなど様々であるが、以下、本文ではスーパー・リアリズムとする) マス・メディア(映画、テレビ、イラスト、マンガ、広告、写真)により大量に伝達・量産され、日常化された映像を美術に積極的に導入したポップ・アートの後継者とされるスーパー・リアリズムは、ポップ・アートがそうであったように、没個性的要素(写真の客観性も手伝って)が強く、とりあげるモティーフが日常的な大衆性を帯びた事物であるという点で、ポップ・アートと共通する。機械的なクールな見地から絵画の写真性について追及しようとする、いや、複製技術の時代においての日常性を、主観が介入していない写真をもとに絵画で表現したと言ったほうがいいだろうか。どちらにせよ写真と絵画を結合することによって、そこにリアリズムを見出そうとしたといえよう。スーパー・リアリズムの代表的作家であるチャック・クロース、リチャード・エステス、ラルフ・ゴーイングズ、エドワード・ウェストンらは一つの作品制作に魔フ時間を費やす。?使っての描写もアなわれたが、流はエア・ブラシを用いてモティーフになる映像をプロジェクターを使ってキャンバスに投映し、その映像を丹念に写しとる(移しとる)手法であった。そこに描かれた画面は一見写真と見間違える程であり、人物や風景が描かれたそれらはパン・フォーカスでの平面的な画面構成をなし、主観的立場が全く排除されたレンズに映った写真そのものであった。それは写真の視覚(レンズ)を再現しようとし、作家自身が無機的なカメラ・アイとなり、観衆にも同じ視点をあたえたといえる。光の粒子を光学的、光化学的に追い求め丹念に描かれた精密な描写技術は、正確な客観としての写真を極度な写実としてあらわした。それはアリストテレスのいうミメーシスではなく写真という複製を忠実に描く、いわば写真そのもののトロンプルイユであった。「細部にわたって焦点がまんべんなく散在するのはマニエリスムなどにも顕著にみとめられるが、細部を探れば探るほど興味が尽きないというマリエニスム的特徴などとちがって、どこまで行ってもガラス窓といった、いわば平板な日常性のなかに取材しているニュー・リアリズムにおいては、けっきょく細部のせんさくよりは[タル・イメージの把握ゥ期待されないでろう。そこでは作ヘ実在の世界と同格であって、対象世界の再現ではありえても表現ではなくなってくる。文字通り現実の一断面しか提供されなくなってくる。この対象世界の解釈は作家でなくこれを享受する公衆の手にゆだねられることになりかねない。どの景色を選ぶかという行為は作家の手中にあるが、あとは額縁を通した外界があるばかりである」[註9] 客観に徹した結果、そこに残ったものは単に写真の模倣という、それだけしかのこらない。写真にとりつかれ社会的表象にリアリズムを求めた点で、ある種深みのない社会的つながりの薄い結果となってしまったことが、スーパー・リアリズムがその前段階のポップ・アートほどに隆盛しなかった原因の一つといえるかもしれない。「新しいリアリズムが都市的な情報化社会の産物であり、対象の客観性を合理的に把握しようとするオーソドックスなリアリズムの概念とは程遠い。テレビや写真など夥しい量の映像に取り囲まれる現代生活において、われわれの視覚体験の大部分は否応なしにそうした映像を通じて行なわれ、視覚そのものが圧倒的に映像の影響をうけている。したがって現実の事物を直接見るよりも、カメラAイによる映像として見るニの方が多いし、カ堰Eアイを通じて虚サされた映像の方が却って別種のリアリティをもつという現象が起こってくる。」[註10]ただ、写真の誕生以来、それまで利用されてきた題材としての写真ではなく、写真の外観と感触をも絵画に写しかえようとしたことはなかった。写真を写真のように描くことで、題材に対する作家の関係を変えてゆく。写真のもつ虚構の映像としてのリアリティにスーパー・リアリズムの作家たちは注目し、何事も数量化・機械化されゆく近代において、作家自らが描くことさえも機械化・装置化してしまう、あるいは自分自身を機械化・装置化できるというアイロニカルな行為(例えばチャック・クロースのように、シアン、マゼンダと色面を重ねて描いてゆく手法は、パーソナル・コンピューターにつながれたプリンターのカラー印刷の作業の姿と重ねられる)に科学的で無機的なプロセスを通し、きわめて即物的な写真以上に写真らしい絵画をうみだしえた、ともいえよう。 それらの時代的背景ともなる大衆消費社会、あるいはメディアを通して等価された写真や映像の本質的なアウラが希薄化するベンヤミンのいう複製技術の時代の到来を経て、マス・メディアよ?ふれ出したイメージの数々れわれ?覆い、映像との生活を過ごすことネる。出版物や広告の写真、テレビの画像に囲まれ、慣れきってしまった私達の視覚体験は、物理的にもの自体と対当することなく、ただの映像を見ただけでそこからリアリティさえも得られる。現代の社会ではそれが特に顕著で、あまりにも日常化したマス・メディアの産物に、感受性や能動性、リスクや真実性や暴力性など何の疑いも持たなくなってしまい、普遍的にイデオロギーとしてわれわれに迫りくることにさえ心配しない。 話をもとに戻すと、この1960年代後期よりあらわれたフォト・リアリズムは、主にアメリカのニューヨークを舞台にあらわれたものであった。同じころヨーロッパにおいてもフォト・リアリズムはあらわれた。主な作家としてはジャック・モノリ、そしてゲルハルト・リヒター(Gerhard Richter 1932- ) である。

                                    □ ゲルハルト・リヒターについて

とりわけスーパー・リアリストはニューヨークを舞台にしていたが、当時のヨーロッパでの代表作家であるゲルハルト・リヒターは同じフォト・リアリズムのカテゴリーにおいても少ハ置づけが違っていた。なぜなXーパー・リアリストたちが闖oす絵画は、写真を寸ュるわぬ写真として現実かと思わせるように描いたのに対して、リヒターの絵画は、描かれた写真としての対象の焦点がボケたりブレたりしたソフト・フォーカス(ピンボケ)の画面構成になっており、そこにはカメラ・アイの視点ではなく写真の奥に潜む形象的(フィギュラティブ)なものを見る視点が感じられるからである。そのようなことからリヒターの場合、前述した意味でのスーパー・リアリストとは一線を画しているように思う。この節では次の章をむかえるに当たってリヒターの大まかな紹介をのべる。 1932年、リヒターは当時社会主義体制下であった旧東ドイツのドレスデンに生まれ、ザクセン州オーバーラウジッツのライヘナウとヴォルタースドルフで育つ。1948年から1951年までツィタウで舞台用絵画と広告看板用の絵画を学び、1952年から1957年までの期間、ドレスデンの造形美術学校でフリー・ペインティングを勉強した後、壁画を学ぶ。その後、写真技師として1957年から1960年まで働く。当時の東ドイツの社会主義体制下の教育は古典を尊ぶものであり、印象派以降の芸術はいわゆる泣Wョアジーの退廃芸術と判断されヌいやられていた。そのため他ゥらの同時代の芸術についフ情報は入ってこず、リヒターも例にもれず同時代の芸術についてはほとんど何も知識がなかった。ただ少し、社会主義リアリズムの洗礼を受けた数人の作家(レナート・グットゥゾなど)とピカソの名ぐらいしか知らなかったことが実際であった。しかし、1959年にカッセルで行なわれた2回目に数えられるドクメンタを見に行った時、ルーチョ・フォンタナやジャクソン・ポロックらの作品から非常に強い衝撃を受けることになる。その強い衝撃が、その後のリヒターを西ドイツに渡らせる大きな理由となるのだが、その大きな衝撃と西ドイツへ渡るきっかけについてはリヒター自身が解答している。「ひとつの衝撃は、東ドイツにあった芸術に比べて、まさに自由であったということです。当時の東ドイツの芸術は、さまざまな妥協を見出してやっていかなければならない状況で、そういった意味では、フォンタナ、ポロックのなかからは新しい方向が見えた。そしてなおかつ、それらの自由であることに対するリゴリズムというか厳格さというか、決心のかたさというか、そういうものがひとつのきっかけになりました。」[1] 1961年、リヒターはベルリンヌのできる直前に旧西ドイツのデbセルドルフに移り住んだ。ェできた後に比べれば、当時国境を越えることは比較的容易であったとはいえ、慣れ親しんだ風景と別れ全く別の価値体系の支配する世界へ飛び込むには相当な決心が必要であったと思われる。 唐突ではあるが、ここで東から西へと壁をこえることについて少し個人的な話をしたい。私にはドイツのベルリンに在住する知合いがいる。私とほぼ同年代の彼は旧東ドイツのベルリンで生まれた。10代後半の年齢でベルリンの壁崩壊を迎えた彼は当時の印象をこう語ってくれた。「東西ドイツの壁の崩壊、その当時一番印象的だったのが地下鉄だった。そこには明確に社会主義と資本主義の対比を感じざるを得なかった。なぜなら旧東ドイツに住んでいた人々は、まず服装が旧西ドイツの人々と異なる。そして言葉遣い。何よりも明白にあらわれていたことは旧東ドイツの人々の動きかた、動作だった。おびえるような動きというか、旧西ドイツの人々が人間らしい動きをしていたとすると、旧東ドイツの人々は決してそうではなかった。僕の中にはいまでもその印象が鮮明に残っている。だからむしろ、今になっても、あまり地下ヘ乗りたくないんだ。」社会主義体制下邇走{主義体制下へとうつるという大な事態を、正直、日本で生まれрノは想像もできなかった。しかし、ここまで彼の中でのトラウマを残す状況を彼が話してくれた言葉のひとつひとつを積み重ねていくことによって、たとえ間接的であったとしてもその換言しがたい状況を肌で感じられたような気がした。私には想像できなかったこと、そう、例えばそれまで盲目だった人間が、はじめて光を見ることができた瞬間のような、視界にどっと世界が流れ込んでくるような感覚とでもいおうか。その全ては希望に満ちあふれ、全てが自由で発見であるような感覚。当時、壁を越えたリヒターもそうだったであろうと思う。 話を戻す。当時、デュッセルドルフのクンストアカデミーではヨーゼフ・ボイスらが教鞭をとり、グループ・ゼロやフルクサスのイヴェントなる活動が盛んであり、デュッセルドルフは前衛の拠点とされていた。リヒターは1961年から1964年までクンストアカデミーに在籍し、途中の2年間はドイツのアンフォルメルの画家カール・オットー・ゲッツのもとで学んだ。(その時、ジグマール・ポルケ、コンラード・リューグらと出会う)1963年から画家とし動を始めるリヒターは、当初はジャコメッB、デュビュッフェ、フォートリエらのiから学んでゆき、そして、漫画烽ニに描くという非「芸術」的、非「因襲」的手法を用いたロイ・リキテンスタインら、アメリカのポップ・アートに触発される。また、ヨーゼフ・ボイスやナム・ジュン・パイク、ジョン・ケージら、フルクサスの冷笑的で破壊的なイヴェント体験がきっかけとなり、彼はヨーロッパ絵画の伝統という束縛から解き放たれ、新しく出発することになる。 多様なスタイル、ジャンル、表現方法をもつリヒターの作品に、一つ一つに厳密な潮流は定めることはできない。[註12]風景、静物、人物などがブレたりボケたりして描かれた絵画で、既存(レディ・メイド)の写真(特にスナップ・ショット)をもとにして描くフォト・ペインティングに1962年より着手する。[註13]その後、1966年にカラー・チャートの作品がはじめて登場する。色の種類を表わしつつ人間の知覚識別能力の限界を示したそれは、以後71年、そして73年から74年に姿をみせる。そして戦争直後の廃虚の相貌を呈するようなモノクローム画面のグレイ・ペインティング、そして1970年代後半からの鮮やかな色彩のアブgラクト・ペインティングシリーズなど、様々に^イルを替え、また同時期に並行してスタイ異なる絵画を描いている。絵画以ナは1967年に突如としてあらわれた立体作品「四枚のガラス」、77年の「衝立」81、86、91、92年の「鏡」や「球」、そして5000枚もの写真を用いた壮大な「アトラス」など、その多くは予想なくあらわれ、またそれまでの作品の潮流とは一見大きく離れたものと感じるだけに、われわれを混乱させる。 しかしながら、手法の多様性とは異なって、彼の求めるもの、作品創造の基本姿勢は常に一貫している。彼にとって絵画は自らの現実の姿を現すものでなければならない、それもいかなるイデオロギーも偏見もなしに。それは非常に困難であり、従ってリヒターは様々な手法を用いながら模索しているのである。彼は注意深く実験を重ね、少し臆病で少し大胆に、出来る限り客観的に真実を伝えようとするのである。

第2章 フリードリヒとリヒターのフォト・ペインティング

□ "Ars imitatur Naturam" 神の被造物としての自然

リヒターのフォト・ペインティングにおいて、自然風景や都市風景などのランド・スケープをモティーフとした作品は初期の時点かスく発表されている。なかでも1968年から71ノは専ら風景画が中心となっていた。もちろん手ヘそれ以前と同じで、スナップ写真G誌から流用したイメージをモティーフにしている。リヒターが描く技法とは別であれ、作家としてのリヒターに大きく影響を及ぼした18世紀後半ドイツ・ロマン派のカスパー・ダヴィッド・フリードリヒ(Caspar David Friedrich 1774-1840)も同じく風景画を描き、自然にみる偉大なる力を描いていた。ここで、リヒターのフォト・ペインティングを考察するにおいて重要な、フリードリッヒについて述べることとする。 フリードリヒは、1774年9月1日バルト海の港町グライフスヴァルトに10人兄弟の6番目の子として誕生した。そしてその後の1798年、ロマン主義運動の中心地、リヒターの出生地でもあるドレスデンに移り、1840年5月7日の66歳の生涯を貧困と病苦の中で終えるまでその地を愛することになる。人一倍人間嫌いでメランコリックな芸術家としてのレッテルを貼られていた彼は、彼曰く「私は人々を愛するのであるが、しかし人々を憎まぬようにするためには、交際を控えねばならぬ」と一蹴する。しかし1歳年下の弟クリストフとスケート遊び中Xの割れ目に落ち、自分を助けようとした弟を死なせてワった過酷な体験、その年少時代の悲劇が、後の彼セ動に潜在的に作用していることは否ネい。 現代のドイツ・ロマン派の代表作家としてのフリードリヒの評価に比べると、その当時の彼は画家人生としては輝かしいものではなかった。1805年、ワイマール美術同好会展に入選して以来、セピア画家としてはかなり認められていたが、油彩をはじめた1807年以後の1824年にドレスデンのアカデミーで客外教授を命ぜられるも、遂には正会員として迎えられることはなかった。彼の生前、彼の作品を王立ギャラリーが一枚も購入しなかったことも事実であるし、死んでからしばらく存在自体を忘れられ続けた画家だった。 ロマン主義はそう、ボードレールの定義したように「新しい感受性」の発見であった。言うなれば、平凡な日常的現実に満足せず、異常なもの、型破りなもの、一般の社会の通念に故意にさからうものを求め、未知の、非現実世界に憧れた態度は現実逃避とでもいおうか。既成の価値の秩序の上に組み立てられた現実の社会に背を向けて、社会の約束事に縛られない自由な想像の世界を享受しょうという姿勢である。その姿勢は、ひしめき合うフ中を逃れ、田園の散策や山の中の湖のほとりの瞑想に魂びを見出す新しい自然観をもたらした。当時のロマ派の人々は、ただ単に山川草木の雄大や?愛好したのではなく、そこに自己の心情を投影してそれを表現しようとした。いわば自然を眼で眺めたのではなく、心で眺めたといえる。そこでは自然は客観的な存在ではなく、人間の心に染めあげられ、見る者の魂と交感しあうものとなる。人間と自然はひとつの共通の絆で結ばれ、時には人間は自然の奥深い神秘の中に没入してほとんど宗教的な高揚を体験することもできる。フリードリヒは、いみじくも次のように語っている。「汝の肉体の眼を閉じて、精神の眼で画面を眺めよ」[註14]したがって、そのような「精神の眼」で眺められた画面は現実の自然の再現ではなく、逆に芸術家の心情を伝えるものとなる。「芸術の唯一の、真の源泉はわれわれの心であり、純粋で素朴な魂の言葉である」というもうひとつのフリードリヒの言葉は、生涯のあいだもっぱら風景ばかりを描き続けたこの画家が、芸術に何を求めていたかをはっきりと物語るものと言ってよいであろう。いずれにしても、ロマン派において明確なものとなるこの新しい自然感情は、中世の伝説の騎スちのように、薄暗いドイツの森の奥や、霧に包まれたイギXの湖畔からやってきた。古代以来のヒューマニズムの揩?受け継ぎ、デカルトの合理主義に養われ「たフランスよりも、異教の英雄たちがなお生き続けているようなゲルマンややアングロサクソンの土地が、神秘的な自然感情に満たされたロマン主義の発祥の地となったことは、自然の成行きであったと言ってよいであろう。[註15] 単に現実の自然を再現するだけではなく人間の心に染め上げられた自然。フリードリヒの作品に描かれた物理的対象物としての自然は、それが今もなお当時のままの土地形態を残していたとしても、その同じ場所はおそらく探しだすことは出来ない。なぜなら彼が描く世界は、いわゆる美化された風景ではなく、スケッチされた風景を意図的に構成することによって、意味をもたせるヒエログリフ(象形文字)の一種になっているからである。彼は本当に様々な場所を数多くスケッチして歩いた。一般に当時はまだ、風景画が戸外で自然を前にして描かれるということはなく、当然彼も油彩画の制作はアトリエで行なったが、その際、さまざまな場所で行なわれたこれらの確実で精緻なスケッチが繰り返しとりだされ、それらを合成すアとによりファンタジーを造形にまでもたらし、偉大な自然を導セしたのである。 あまりにも唐突すぎるかも知れないがAリストテレスのいう (厳密に言うと、中世の[ロッパ人たちが解釈したアリストテレスの言葉)"Ars imitatur Naturam" は、"アルスはナトゥーラムのイミタティオである"、つまり "技(業)は神の被造物(自然)になりきる" 、とした。自然は神の被造物であり、その被造物である自然を人が描くという、神・自然・人(自然は神の子で人は神の孫である)の三段階であったが、18世紀後半から、ピューリタニズムの高揚はすたれていき、対峙する自然そのものの中に倫理的善(神)を見る傾向が強まった。フリードリヒは無限なもの近づくためにもっぱら自然を見つめ、描いたのである。そして彼の十字架風景画に代表されるように、マリアや従者の姿がうつらない金属の作り物としてのキリストと十字架が岩山にたつという、彼独自の新しいキリスト教絵画、新しい風景画をうみだすのである。もう少し言うなら、カール・グスタフ・カルス[註17]が、1820年にフリードリヒの風景画を見て次のように印象を述べている。「自然の風景の見事な統一性を眺めェら、人間は自己の卑小さに気づかされ、あらゆるものが神のなか?ることを感じて、いわば自己の個人的な存在を断念してこのタのなかに自己を投げ出してしまう……。このよノ自分自身を消滅させることは、自己を失うことではなくて、逆にいっそう大きなものを得ることなのだ……」カルスの言葉はドイツ・ロマン派の体現者としてのフリードリヒの絵画の特質を、ほとんどあますところなく伝えてくれる。フリードリヒにとっては、自然はそのまま神であった。その自然の前で、人間は当然小さな、か弱い存在になるが、しかし、ターナーの画面におけるように、人間は自然の強力な力に押しつぶされ、翻弄されるのではなく、自然のふところに同一化させられ、一体となってしまう。ロマン派特有の「現実逃避」が、ここでは自然との神秘的な同化のなかで、ほとんど宗教的儀式に近いおごそかな魂の高揚をもたらしてくれるのである。[註18] フリードリヒが描く絵画は人生の過渡期の世界、つまり十字架や氷山や大草原、よく描く船は人生の隠喩である。人生航路は死で終わるが、そこには復活の思想がある。「しばしば問いが私に向けられる。なぜ君は絵の対象にかくもしばしば死、無常、墓を選ぶのかと。永遠カ命をいつか得るために人はしばしば死に身を委ねねばならないのだ」19]彼の彼岸の世界は明るい。死が往々にあらわれた画面。そノはつまり、死というものを意識(克服)すること謔チて得られる新たな生、換言すると、今までの自分を捨て去り、新たなる自分に生れ変わるという、ひとつの通過儀礼として位置づけているように思う。 ルネサンス以来、画家は時には生々しいまでに写実的にキリスト教絵画を描き続けてきた。バロックや新古典主義の画家たちは、異教徒的素材との安易な融合によってキリスト教世界を明晰に説明して見せた。フリードリヒはこれらすべてが残していった歴史的叙述性を絵画から退け、歴史にとらわれることなく、ただ神と自然と人間との関係から芸術を考えたのである。[註20] リヒターの描くランド・スケープにも、フリードリヒの自然に対する見方を重ねられるように思う。注意深く選別された写真に映るもの、精神の眼で選びぬかれたそれらは単なる風景ではない。大自然の風景を前に人間のはかなさを、彼岸の世界を見い出す。あるいは伝統的な絵画のモティーフでもある髑髏や蝋燭を描いたあの印象的な作品もそうである。つまりそれらは死のメタファーとしてあらわれ、指ホ象がもつ本質としての仮象(光)を放つ。

                                   □ 再びリヒタヨ

写真の本質は一見実にシンプルである。それは、^は常に既に「何かの」写真である、ということにすぎない。写真とは表象をもたずにレファラン(指示対象)だけをもつ特殊な記号である。つまり、写真は「撮るもの」からも「撮られたもの」からも独立しているということである。このことに関してはバルトにくわしい。(前述の指示対象という言葉を、ここで引用した参考文献では指向対象としている) 「私が《写真の指向対象》と呼ぶのもは、ある映像またはある記号によって指し示されるものであるが、それは現実のものであってもなくてもよいというわけではなく、必ず現実のものでなければならない。それはカメラの前に置かれていたものであって、これがなければ写真は存在しないであろう。絵画の場合は、実際に見たことがなくても、現実をよそおうことができる。言説は記号を組み合わせたものであり、それらの記号はなるほど指向対象をもっているが、しかしその指向対象は、たいていの場合、《空想されたもの》でありうるし、また事実そうである。絵画や言ノおける模倣とちがって、「写真」の場合は、事物がかつてそこにあったといとを決して否定できない。そこには、現実のものでありかつ過去のフである、という切り離せない二重の措定がある。そしてフような制約はただ「写真」にとってしか存在しないのだから、これを還元することによって、「写真」の本質そのもの、「写真」のノエマと見なさなければならない。私がある一枚の写真を通して志向するもの、それは「芸術」でも「コミュニケーション」でもなく、「指向作用」であって、これが「写真」の基礎となる秩序なのである。」[註21] リヒターが絵画のために選択する写真は決して表層的判断や無作為ではない。利用できる写真を選びだすにはいつも大変な苦労をしなければならない。素人写真やスナップ写真の方が時に素晴らしいとするリヒターの判断と完成した作品のモティーフより詮索すると、大きな過ちを犯しかねない。実際、対談の場にてリヒターとインタビューアーの解釈の誤解が、その点において生まれることもしばしばである。リヒター自身にとって、本当はどうでもよいのに、観るものに少しばかりショックを与えるようなモティーフをわざと探しだしているのではないか、という誤解で驕Bこの根拠、あるいはリヒターが選択する写真の位置づけに関して、彼自身実験的獅ンもしている。その実験的な試みは、精神の眼で自然と対峙し、そノ本質の光を見出したフリードリヒに近づこうという姿勢だス。 「本当はわかっているはずなんだけどね、絵を描くために写真を撮ろうとしても絶対うまくいかないんだ、って。写真は写真のために撮るんであって、運が良ければ、後から絵になる写真を発見するんだ。描き写す価値のある、そういう特定のクオリティを持つ写真を撮る、ということは僕には幸運の偶然のように思える。  (R:リヒター/O:ハンス・ウルリッリ・オブリスト)          R: …根拠をむりやりひねりだすことは不可能だ。一度わざわざグリーンランド  まで行ったことがあるんだよ。カスパー・ダヴィッド・フリードリヒが、あ  の美しい、打ち砕かれた希望の絵を描いたから…。そこで何百枚も写真を撮っ  たけど、そこからはほとんど一枚の絵もできなかった、駄目だったね。  O: つまりモティーフ探しが絵に結びつくことはほとんどないんですね。   R: モティーフ探しはカメラマンの仕事だ。反対に、ほとんどなんの意図もなく  どこか外に腰掛けて、なんceィーフも探さないときに、突然探してもい  なかったものが立ち現れる、こういフが良いんだ。」[註22] 写真には、視覚的無意識が映し出されていBそれは写真の潜在的な質として、決して意識されえず、見られネいものとして、写されているのである。これが写真的不可視である。その不可視の部分を、絵筆でキャンバスに描写するという「手の業」を使い、あらためて絵画とするところにリヒターのフォト・ペインティングの本質が潜んでいる。自身の方法論を「写真のように見える絵画をではなく、写真を普通とは違う方法で制作する」こと、と語るリヒターは、写真画像(フォトグラフ)によりながらも写真術(フォトグラフィ)からは距離をおく、紛れもない画家(ペインター)なのである。 「ぼかしの技法は普遍性を速やかに得るための唯一の可能性だった。のちにフォト・リアリストたちがそれをちまちまと精密に描いたけど、ぼくは第一にそんなに辛抱できないし、第二にそんな事をしていると、そもそも作品知覚の障害となる要素が入り込んでくるんだ。つまり、ひとつには作品の巨大な作品サイズと、それとともにそれに一年もかかるということへの賛嘆がある。出来上がった作品についての驚嘆とぁ、まるで写真みたい!」という効果。こうしたすべてを、僕はわざと安っぽくつくるニで回避したかった。これは写真だけど、苦労して写し取ったり複製したフではない、とわかるようにね。当時それはうまくいった。作品は^との本質的な類似性を保っていたが、写真のコピーのようには見えなかった。」[註23]ピンボケしたリヒターの絵画に彼岸を見る。生死の海を渡って到達する終局・理想・悟りの世界。彼が用いるフィギュラティブな表現方法は、写真の「それは、かつて、あった」という即時的過去の真実をよみがえらせ、イデオロギーの犠牲者となった人、事件などの事物を、ぼやけた仮象というイリュージョンのうちに世界の恐るべき唯物性をさし示している。様々な彼の作品群の中でも、最も代表的かつセンセーショナルな「1977年10月18日」という連作をあげる。 1977年10月17日の深夜から翌朝にかけて、ドイツ・シュツットガルト近郊の刑務所で、服役中のドイツ赤軍(RAF)のメンバー三人が自殺を図った。いわゆる「バーダー・マインホフ・グループ」の幹部である。アンドレアス・バーダーやグドゥルン・エンスリンらで、彼らの死はソマリアの空港で、ルフトハンザ機のハイジbク犯に対し、西ドイツ政府が強硬措置をとって成功した出来事と時を同じくしていた。こニき、ハイジャックの犯人たちはバーダーらの釈放を要求していたのである潟qターの作品は現代史の一ページをなすこのドイツ赤軍の逮捕や死を゙にしている。それを写真と見誤るのは写真をもとに描かれ、しかも像がぼんやりしている描写が写真特有の映像に通じるからである。このピンボケこそが作品のリアリティーを二重に保証している。というのもまずこの出来事は警察が提供した報道写真によってわれわれに知らされた。だからわれわれがこの事件をいまをもって最も鮮明に思い出すことができるのは、写真のイメージを介してである。と同時にこの出来事は、バーダーたちがどういう経路で自殺のためのピストルを手に入れたかなどの点で、いまだに多くの謎に包まれている。リヒターが意識的にそうした不明瞭な描写は、この謎を謎のままに提示し、真実を真実のままに提示するような効果によって、見る者にいわく言いがたい実感を喚起するのだ。つまり、この絵では同時代の事件を題材にして、イデオロギーが引き起こした現代の死を哀悼させるのだが、それに説得力があるのは、絵画がいかにして今日リアリティーをソうるのかという表現上の問題を画家が考え抜いた結果、写真のイメージを採用したからなの?る。以下がこの作品に関してのインタビューである。           @             ヤン・ソーン=プリッカー(以下 TP): hイツ赤軍(RAF)の哲学にあなたは惹かれなかったのですか。     リヒター(以下 R):   はい。マルクス主義や他のものと同じように、イデオロギーとして捨て去っ  たのです。わたしは、そのこととはまったく異なったものに興味を抱いたの  です。わたしが伝えようと思ったのは、強烈な行動を惹起するイデオロギー  の存在理由についてなのです。なぜわたしたちはイデオロギーをもつのか。  それは、わたしたちの生存にとって不可避で必要なものなのか。それとも、  それは余分でわずらわしい、生命を脅かす狂気なのだろうか。       TP:  …では、赤軍の死者はかれらのイデオロギーの犠牲者だと?    R:  そうです。でも、左や右の特定のイデオロギーの犠牲ではなく、イデオロギー  的行動そのものの犠牲なのです。そしてそれは、ヒューマニティ一般、革命  そして挫折といういまなお進行中のジレンマと深いWがある。[註24] リヒターが写真へと向きを変える第一の動機は、意志的な否定の行為だったナある。彼は、写真を描くことで、まず60年代初期の美術制作に可能であった他I択肢を避けようとした。それらの選択肢とは、社会主義リアリズムの教条ネ英雄性、アンフォルメル・アートの主観主義への信仰、イヴ・クラインの精神性、それにグループ・ゼロのイデアリズムである。特にナチと東ドイツでひどいものを見てきたリヒターのイデオロギー嫌悪は大きく、芸術をイデオロギーに従属させてしまう社会主義リアリズムは、芸術と社会の正しい関わりを見出せないと過剰に反応する。彼が唯一信頼に値する指針として見い出したのは、フルクサス活動のアンチアート的姿勢と初期のポップアート、特にリキテンスタイン、ウォーホール、オルデンバーグに顕著だった非芸術的な主題とスタイルであった。リヒターは次のようにいう。「今世紀の初めから写真の効果は次第に拡大し、今日では写真に撮った現実の対象よりも、再現されたリアリティー、つまり写真の方をわれわれはより信じるようになった。写真が持つ情報は、ドローイングよりもはるかにはっきりしていて納得がいく。」このようにリヒターが写真をもとオた制作を選び取ることで、モダニズムを導く理念であった主体性やオリジナリティをかれにとっウ用なものとし、制作の方法としての主題やコンポジションに無関心でいることがで驕Bまた、写真をぼかしたりぶれたように描くことで、(しばしば、かれの言ニ結びつけられて語られるのだが)被写体のもっていた個人的な特徴も消去される。 近代絵画(モダニスト・ペインティング)は、イリュージョン(意識)を徹底的に排除しようとして次第に狭隘になる道を歩んできた。ところが、そこへ不意にリヒターが現れ、ほとんど忘れかけていたイリュージョニズムをその鼻先に突きつけたのだ。リヒターの絵画以降、わたしたちはそれがどのようなスタイルの絵画であれ、いくばくかのイリュージョンを感知することになるだろう。たとえそれが、ジェラード・ヘムスワースや、オリビエ・モッセなどのポストモダン的傾向の濃い作品でなくても、幾何学的フレームをもつエルスワース・ケリーの平面的なモノクロームの絵画にさえ、未発生の状態のイリュージョンが立ち現れようとうごめき、泡立っている様子をまのあたりにするのである。しかし、60年代以降さまざまにスタイルを変えながら制作を継続していくなかでqターは、基本的に対象、行為、プロセス、コンセプトを強調する前述のアンチ・イリュージョニズムX向から次第に離反していったように思われる。そして80年代に入り、ポストモダニズフ流行につれて、かれの作品が、絵画の再生というコンテクストで語られたりG画的要素の引用によって絵画のデコンストラクションを遂行していると評価されたりして注目を集めるようになった時、リヒターの絵画シリーズは、それがどのようなスタイルの表現であろうと、他のポストモダンの絵画よりもはるかに強くイリュージョンを横溢させていたのである。 最後に、リヒターの根源でもあり揺るぎなく力強い言葉を記しておく。 「わたしは、基本的に唯物論者である。精神、魂、欲望、感情、感覚などは、物質的な原因(機械的、化学的、電気的、等々)をもち、コンピューターが破壊されたり電源を切られたりすれば、それによって処理された仕事も消えるのと同じように、物理的な基礎とともに消滅する。 芸術はこの物質的な条件のもとに成立する。それは、わたしたちが日々見かけ(仮象)を取り扱うことの特殊な様式、すなわち、わたしたち自身やわたしたちを取り巻くすべてを認識する方法である。したがって芸術とはアの見かけ(仮象)を制作しようとする欲望にほかならない。それは、多かれ少なかれそれに似かよったタの制作になぞらえることができよう。このようにして芸術は、全てを別様に思考し、見ッ(仮象)を根本的に不適合なものとして認識する可能性をひらく。それは、わたスちには閉ざされていて接近できないもの(平凡な未来だけでなく、本質的に形而上学的で認識不可能な事柄)に近づくための手段であり方法なのだ。それゆえ、芸術は教育的、治療的、慰撫的、啓蒙的、冒険的、そして思弁的な機能をもつ。それは、たんに実存的な快楽を与えるのではない。それはユートピアなのだ。」[註25]

第3章 現代日本のフォト・ペインティング作家

□ 伊庭 靖子

日本にて1990年代中期からあらわれた、いわゆるピンボケ絵画が、1998年度の「VOCA展」[註26]で伊庭靖子の作品が奨励賞を受賞したことを期に、代表的にピンボケ絵画の地位を決定付けたというと、少々いいすぎであろうか。少なからずとも最終的な現象として一つの潮流が隆盛したという証にはなるであろう。そこで出品された作品は、まさに写真のような、しかし輪郭線と焦点がぼやけた、一見何が描かれているのか分からない、そんなフg・ペインティングであった。そこからは映像性があふれ、さまざまなメディアによってあふれ出した映像繧フあいまいな時代を反映するものである。 版画出身の伊庭は油絵に転向する1994年まA三色分解した写真をシルクスクリーンで刷っていた。網点が気に入らずに絵具で埋トいくうち、妙なリアリティーを覚えたことが写真を絵筆で描きはじめるきっかけとなった。印刷された写真が絵具を重ねることでにじんで見え始め、映像の光の中に浮かぶ像のような鮮明さを醸し出したのである。伊庭が興味を引くのは透明感がある映像的な色のにじみやブツブツしている物の質感であり、写真を見ながら描く理由としては、どちらかというと思い入れや物語性が詰まった絵画は好きではなく、それらを排除しようとする狙いからである。何を描いているかは、作品を見る人にはむしろわかってほしくなく、絵具を使って映像らしい空気らしさを出したいとしている。 「私は写真を描くという方法で制作しているが、被写体自体が問題なのではない。映ってしまったイメージのみを純粋に描きだしたいのである。それは、ぼけたり、ずれたりすることによって出てくる像(光の屈折や色彩の滲み、形の歪みなど)や、また具体的写体が映し出されていても、全てにピントが合うことによって平板な光の粒子しか無いようなイメージなど?る。そこには、写真本来の機能としての世界の忠実な再現や、写真家による物語的な連想とはWのない、光と色彩に満ちた世界がある。抽象的で、なおかつ客観性をもつような、薄リり取られた世界。映像の溢れている現代においては、カメラの操作によって出来る映像(ぼけ、ブレ)に、私たちの視覚自体が慣れてしまっている。だから、シャッターを押すと不可避的に映し取られてしまう映像の中から何を選びだすかということが重要になってくる。ぼやけた映像の美しさを否定するわけではないが、それだけに頼ることなく制作しなければならない。映像をモティーフに制作するということは、絵画という、自らの手で描く方法で、映像の光、色彩、形などを解きほぐし、映像によって絵の具の考察を深めていくということなのである。」 伊庭はまず自身でモティーフとなる写真を撮影する。対象に対してかなりの接写を行なうが、その後のキャンバス上でのトリミングはほとんど付けず、撮影の段階でボケや構図を決定させる。つまりこの時点でほとんど描かれるモティーフの抽象が完了するのだ。技法もかつフスーパー・リアリズムの作家たちのように、スライド・プロジェクターなどは使用しない。そしてエア・ブラシヲも。写真だけをたよりに、巧みな筆使いにより油彩のみで制作する。私は一度、伊庭の作品製作iを映像でみたことがあるが、幾本もの筆を用い、さまざまな角度で絵具をキャンバスにさせる。筆の腹で塗ったかと思うと、筆を立てて筆の頭で細かくたたく。そして広い平筆でなでるようにぼかしてゆく。極言すればそれはもう筆の用途を越えているようにも見える。その筆が織りなす色彩の乱舞は、ある種エア・ブラシの精緻な仕事に匹敵する。伊庭の作品におけるあいまいさは、機械を使わず、かぎりなく手を用いてかぎりなく機械っぽい作業をする事により、つまり結局はアナログが織りなすデジタルさ(正確さ)なのだが、決してデジタルにはなれない、近づこうとするアナログさが、最終的なあいまいな画面に、決まりすぎた冷たさではなく、あいまいという手の温かみが詰まっているのである。 実際に描かれるモティーフは、版画の頃からこだわっていた植物的なイメージだけではなく、ビールなどの液体、カラフルなシャツなどの衣服、そしてお菓子などである。簡単に言ってしまえば日常的なもナある。しかしながらその画面を見てもすぐにそれとは判断できない。「複雑な立体的対象に接近しすぎる撮影は被E深度が失効し、顕微鏡のようにある部分のみが極度に細部まで描かれ、焦点をはずれたすぐ横の圧倒ハの地帯では、曖昧な像として彼方に飛んでいる。写真の光学的機構からくる、この大画面`かれた映像の劇的変化は、我々をこの“見え”への意識に向かわせると同時に、この巨大化した対象のもつ質感にとらえられる。そのモティーフは上記のように有機的な、あるいは融解的な不定形の姿のもので、いずれも感触性が高く、それも複雑な奥行きを見せるものが多い。明るい装飾性をも示しながら、うごめく曖昧なもの。ごく普通に目にされるものでありながら、接写されたその像は茫洋とした奥行きを持ち、見たこともない異世界を、すでにもう一つの「風景」を見せてしまっている。」[註27] 完全に抽象され茫洋としたイメージは、私たちの頭の中に共通項となるイメージを幾つかリストアップさせるのだが、結局は本当の解答を聞くまでは腑に落ちない、それが何なのか、つまりマジシャンのタネ明かしが行なわれてはじめて拍手喝采するにいたる。 「かなり接写したものが多いのだが、色の滲みやフ屈折の仕方が自分のイメージにより近いものを選ぶと、そうした映像になってしまう。写真を使うのは、これらの映ノよって出来るイメージのみを抽出する為で、直接ものを見て描くのとは違い、自分の主観的な思い入れ?りにくいと思うからである。ものを直接見て描く時、自分の眼では何かそのものを捉えようと驍ェ、私は眼に映るものを突き放して捉えたいと思う。最近は出来るだけ映像に、物語的、情緒的なものが入り込まないように、何が写されているか分からないような写真を選び出す。具体的なものが入り込むと、どうしてもそこから「物語」が生じてくるように思えるからである。そうではなくて、「映像」そのもので、私の感じる映像らしさ、色や光、透明感などで作品を作り上げたいと考えている。だがまだ、ものがありピントの合った部分があり初めて、映像の滲んでいく、ぼけていく様を描くことが出来る状態で、ピントの合った部分を無くしてしまうと、単に平面的な色面構成になってしまう恐れがある。それらは、映像らしさというものが、私の中でまだ明確ではないからだと思う。どうしたら、ものに頼らず絵具と色彩、透明感や光や滲みといったところだけで、「映像」だということを表現出来ゥ、ピントの合った部分を描かずに表現できるか、それが今の課題である。ただ、最終的には、それが「映像」だというニを表さなくても良いのかも知れない。自分が映像に引かれるものと同じものが画面上に表現出来れば、そナ良いのかも知れない。」[註28] ポップ・アートの流れ(影響ではなく)を感じるというと安ナあろう。身の周りのもの、つまり日常的なモティーフがマジシャンのタネであるわけだが、やはりそれらは広告や印刷物などマス・メディアからの映像に結びついてしまう。それらは時に断片的で瞬間的な視覚体験をわれわれに及ぼす。サブリミナルとでもいおうか。知覚認識が間に合わなくとも、潜在意識が記憶する。そこの間でのタイム・ラグがあいまいな画面をそれと認識するまでの時間となる。少し抽象的になってしまったが、伊庭自身も言うように、具体的なものの形があることによって引き起こすジレンマは、まさに「映像らしさ」というタイム・ラグによって、あいまいなピンボケ画面が成立しているといえよう。             □ 丸山 直文

1990年に開催された初個展以来、丸山直文の絵画の画面にうつるものはバイオモルフィック(生命形態的)なイメージであったAなる細胞のような、胞子のような、はたまたクローズアップされた細胞分裂の静止画。顕微鏡を通してみたアオミドロ[註nのようにもみえる。それは抽象でもあり具象でもある何とも不思議な物体で、絵画空間の中でひときわ距離?くるわし、形態があるにも関わらず掴めそうにない、柔らかな画面形態である。丸山が絵画制作に「て一貫して用いている技法がステイニング(にじみ)である。ステイニングとは下地を作っていないキャンバスを湿らせ、絵具を染み込ませていく技法で、丸山はそこに、ドロドロにしたアクリル絵具を染み込ませていく。例えるなら、きれいなコットンのテーブル・クロスにコーヒーをこぼしたときのようなあの広がりと茫漠とした輪郭が、多彩なアクリル絵具によって形成されているのである。どちらかというとキャンバスに絵具を置くのではなく、キャンバスを染めるといったほうがよい。浸透の作用によって生み出される絵具の波紋は、水分の多少とキャンバスの粗密が互いに探り合い、影響を与え合いながら広がってゆく。そこにはまさに、ピンボケの画面としての絵画が浮かび上がるのである。そのようにして描かれた画面はまさに呼吸をする生命体のようである。しかし丸山は具象鰹ロのとの境界線で絵を描いてしまっていると、絵画のための絵画として自己目的化してしまい、スタイルが固定されて容易に潟Vェに陥ってしまうことを警戒したという。そして、絵画を描く根拠を見出そうとして、試行錯誤を続けることネる。[註30]それまで抽象のイメージのモティーフであったのに対し、1996年から人物の顔、怩ェあらわれ具象的な方向へと進む。画面いっぱいに広がった人物の顔はかなりデフォルメされており、人物の距離感がつかめず浮遊しているようでもある。そしてその後、ドイツへの滞在時に撮った写真をもとにした夏の風景画のシリーズがあらわれる。ここでは特に風景画についてのべる。 自分が見た情景や日常生活のなかから得たイメージにもとずいて描かれた風景画の画面には、時間から切り取られた物語が描かれている。その情景は断片的で音のない景色で、しかしながら牧歌的でもある。少し暗い室内から扉を開けて外へでた瞬間、太陽の白い光に包まれ眩しくなる状態のような画面。あるいはライト・ボックスの上でスライドを見るときのような白い逆光線があふれるイメージ。または逆光に照らされたようなぼやけた夢や回想シーンのようでもある。うっそうと生い茂る樹ニその影、壮大な岩山や広場、そこで遊ぶ少年少女。木漏れ日と森林の深い緑が溶け合う幻想的な風景。ステイニングの技法が具象?いまいにしているのか、抽象と具象との間で感じる、たゆたうイメージがあらわれている。 こうして、現前するフ時間と光、その静けさとあらゆる光と影と色彩の戯れは、遠い記憶のなかの、子供のころの夏の光とフ化する。だれしも子供のころ、夏の光と時間は、たしかに無限に続いているように思われたのではなかったろうか。そこに丸山は、自らの個人的な記憶に根を下ろし、切実性を持つとともに、ある普遍性をもって観客に訴える主題を見出したのである。むろん丸山は、追憶にふけるために夏の光と時間とを描くわけではないだろう。それは、絵画を描くため、絵画を実現するためにほかならない。画家は視覚の本質と絵画の本質とがもっとも一致する地点を求めて、夏の光を手がかりとしているのである。それは、画家が求めたものであると同時に、その手法が要請するものであったかもしれない。キャンバスに浸透する鮮やかな色彩は、やはりイメージの生成をつかさどっているのである。[註31] そのような丸山の風景画にドイツ滞在時の環境の影響を見るのは強引であろう。ゥし、森林(公園)の多いドイツで生まれたロマンティックな物語は、丸山が自然のなかに神を見出してはいなくとも、過去の偉大なニを生み出した環境が彼に及ぼした潜在的な影響は疑うべきであると思う。

第4章 リヒターと現代日本作家

□ 共感しうるリアリズムとは ー ロマンティックな古典主義

「私はぼかしたりしない。輪郭をぼかアとは、私の作品のトレードマークでもないし、一番重要なことでもない。境界線を消去してグラデーションをつくったとしても、それは描写を破壊して、より芸術的に、あるいはより不明瞭にするためではない。曖昧な輪郭腺や、筆あとを消してスムーズに均した表面は、内容を明瞭にし、描写の信憑性を増す(厚塗りの絵画は、あまりにも絵画らしすぎて、イリュージョンを壊してしまうだろう)。輪郭をぼかすのは、すべてを均等にするため、すべてを等しく重要で、あるいは等しく重要でなくするためである。芸術くさく、手仕事くさくみえないように、つまりテクニカルで、滑らかで完璧にみえるように、ぼかすのである。すべての部分が互いに浸透しあうためにぼかす。また、多すぎる無用な情報を拭い消すためともいえる。」[註32] 現代のわたしたちの身の周ノはマス・メディアからの映像が氾濫しているなどという話を、もう一度わざわざここで述べる必要はないであろう。例えばその時代のィはインタラクティブや、もはや死語になりつつあるバーチャル・リアリティなどという言葉を残していった。情報や怩ェわれわれに及ぼすもの、時に断片的で瞬間的な視覚体験が完全なるサブリミナル効果を発し、絵画の画ニ日常化された画像までもを同次元で解釈してしまう。現代の私達においては、それらが身の周りにあって当たり前、なければ不安になるという衝動さえ引き起こす。情報や映像に慣れ親しんだ私達は、それ(情報機器だけでなく、イメージでの会話なども含む)を用いて、双方に主体性と存在性のない交信をくりかえす。ここで、この文脈に適切なバルトの言葉を借りよう。 「喫茶店の客を見て、こう言った者がいる。《見たまえ、彼らの生気ないこと。現代においては、人間よりも映像の方が生き生きとしているのだ》、と。われわれの世界の特徴の一つは、おそらくこうした逆転現象であろう。われわれは一般的なものとなったある想像物に支配されて生きているのだ。たとえば、アメリカ合衆国では、あらゆるものがイメージに変換される。ただイメージだけがンし、生産され、消費される。極端な例をあげるなら、ニューヨークのポルノショップに入ってみるとよい。そこに見出されるのは、悪徳ヘなく、ただ単に悪徳の生き生きとした場景だけである。そうした場所で自分の身体を縛らせ鞭打たせている名もない個ヘ、自分の快楽がステレオタイプ化した(さんざん使い古された)サド・マゾヒスト的イメージと合致しないャり、いわば快楽を感ずることができないのだ。つまり享楽がイメージを通しておこなわれる、ということであって、これは重大な変革である。このような逆転現象は、必ず倫理の問題を提起せずにはいない。といっても、イメージが不道徳であるとか、反宗教的であるとか、悪魔的である(「写真」が出現した当時、ある人々はそうきめつけた)ということではない。一般的なものとなったイメージが、葛藤や欲望に満ちた人間の世界を例証すると称して、実はそれを完全に非現実化してしまうことが問題なのである。今日、いわゆる先進社会を特徴づけているのは、そうした社会がイメージを消費し、もはや昔の社会のように信仰を消費しているのではない、という事実である。それゆえ、先進社会はより自由主義になり、より狂信的ではなくなったが、しかしス、より《偽物》となった(より《本物》ではなくなった)のである  われわれが日常的な意識のうちに認めざるをえない、吐き気のしそネ倦怠感は、そうした事態を表わすものだ。たとえてみればイメージが、普遍的なものとなることによって、差異のない(ヨ心な)世界をつくり出しているのである。そこで、その世界のあちこちからは、ただアナルシスムの、周縁主フ、個人主義の叫びだけが湧き起こってくることになるのである。イメージを追放して、直接的(無媒介的)な「欲望」を救い出そう、と。 狂気をとるか分別か?「写真」はそのいずれをも選ぶことができる。「写真」のレアリスムが、美的ないし経験的な習慣(たとえば美容院や歯医者のところで雑誌のページをめくること)によって弱められ、相対的なレアリスムにとどまるとき、「写真」は分別のあるものとなる。そのレアリスムが、絶対的な、もしこう言ってよければ、原始的なレアリスムとなって、愛と恐れに満ちた意識に「時間」の原義そのものを思い起こさせるなら、「写真」は狂気となる。」[註33] 言ってしまうと、リヒターと本論でのべた伊庭、丸山の作品は全く違うものである。それは技術やイメージの借用に関してだけではなく、iとして自律している本質的な部分にも差異はある。しかしながらリヒターの作品と伊庭をはじめとする現代の日本の作家作品とを同一視さえトしまう原因は、なによりも表層で判断してしまうわれわれのイメージが生成させる仮象(見かけ)である。 特に日本でのフg・ペインティング作家がきびしい見方や批評をされる時、リヒターの作品に対するファッション性(流行、潮流?ーブメント)においての共感や反応ともみられがちではあるが、決してリヒターの借用ではない。それは戦後の近代化した情報社会で同時代的に生まれてきた者たちが共通して感じている、あるいは感覚としてわれわれにビルド・インされた「あいまい」という知覚にほかならないだけだと思う。あるいは、あいまいという言葉の言い方を変えると「らしさ」かもしれない。伊庭がいうように彼女が映像らしさを求めるのは、その内容はそれぞれ別であれ、限りなくそれに近づこうとしている、その段階的な「らしさ」で、模索している段階なのである。時代と反映させて語るわけではないが、われわれのこの時代のバブル期(ひいては高度成長期)の高揚からの急降下の落下は、好景気な上昇の時代、そしてその時のロマンティックな生き方を模索nめた瞬間に訪れた、急な脱力。そして不景気な時代に入り本質的価値(真価)を求める古典の模索に移ったように。 リヒターの絵画と日本の「まいな具象画に共感する理由は、われわれの、この仮象(映像)で覆いつくされた生活の中から生まれた、感性、感覚、経験に辮Gりのよいロマンティシズムなるものを差し出し、事実という本質を絵画という手の業を通して古典を回顧(回帰)ケる方角へいざなうからではなかろうか。彼らの絵画に現前したとき、そこにロマンテックな古典を見いだすのである。 最後にバルトの言葉で、本論の終りとしたい。 「写真」が写して見せるものを完璧な錯覚として文化的コードに従わせるか、あるいはそこによみがえる手に負えない現実を正視するか、それを選ぶのは自分である。[註34]

[註 釈]

[註1]清水穣訳『ゲルハルト・リヒター[写真論/絵画論]』     (淡交社 1996年)13項

[註2]大西若人「朝日新聞」(1996.3.29 夕刊)

[註3]稲垣直子「日本経済新聞」(1998.10.31)

[註4]天野一夫『曖昧なる境界ー影像としてのアート 展』     (財団法人品川文化振興事業団O美術館 1998年)       垂T]天野一夫『曖昧なる境界ー影像としてのアート 展』展覧会カタログ     (財団法人品川文化振興事業団O美術館 1998年)9項

[U]菅原教夫『やさしい美術-モダンとポストモダン』     (読売新聞社 1992年)99項       [註7]同上、99項

垂W]同上、101項

[註9]島本融「さまざまのトロンプルイユ」『美術手帖 7月号 No.383』     (美術出版社P974年)81項

[註10]三木多聞「変貌したリアリズムをめぐって」『美術手帖 7月号 No.383』     (美術出版社 1974年)96項

[註11]「希望のペインティング」『美術手帖 2月号 No.752』     (美術出版社 1998年)205項

[註12]1988年にシカゴのICAその他でひらかれた展覧会のカタログでは、62年以降のリヒターの      絵画業績を3つのカテゴリーに分け、それぞれフィギュラティブ・ワーク、コンストラク      ティブ・ワーク、アブストラクト・ペインティングと名づけ、それらをだいたい次のよう      に時期的に区別している。フィギュラティブ・ワーク(1962〜1966,7)、コンストラクティ      ブ・ワーク(1966,7〜1976)、アブストラクト・ペインテ塔O(1977〜現在)。しかし、      おのおののカテゴリーに入る作品を、年代順にきっちりと振り分けることは難しい。

[註13]リヒターがッセルドルフに移住し、美術学校在籍中に制作された作品「机」が彼の作      品リストの第1番に置かれている。

[註14]K秀爾編『ターナーとロマン派風景画』     (中央公論社 1994年)95項

[註15]同上

[註16]藤縄千艸編『Cツ・ロマン派画集』     (国書刊行会 1985年)35項

[註17]カール・グスタフ・カルス(1789-1869)=ゲーテの友人であり、物理学者、医学者、哲学      者であってさらに画家でもあった。

[註18]高階秀爾編『ターナーとロマン派風景画』     (中央公論社 1994年)97項

[註19]藤縄千艸編『ドイツ・ロマン派画集』     (国書刊行会 1985年)33項

[註20]市原研太郎     『ゲルハルト・リヒター=ペインティング・オブ・シャイン=』     (ワコウ・ワークス・オブ・アート 1993年)

[註21]ロラン・バルト 花輪光訳『明るい部屋ー写真についての覚書』     (みすず書房 1985年)93項

[註22]清水穣訳『ゲルハルト・リヒターハ真論/絵画論]』     (淡交社 1996年)147項

[註23]「ゲルハルト・リヒターの20作」『美術手帖 4月号 No.722』     (美術出版@1996年)25項

[註24]市原研太郎『ゲルハルト・リヒター =ペインティング・オブ・シャイン=』     (ワコウ・ワークス・u・アート 1993年)56項

[註25]市原研太郎『ゲルハルト・リヒター =ペインティング・オブ・シャイン=』    iワコウ・ワークス・オブ・アート 1993年)4項

[註26]「VOCA展」THE VISION OF CONTEMPORARY ART の頭文字を取って名付けられた年      に一度のアニュアル展。全国の学芸員、研究者、ジャーナリストによって推薦された40歳      以下の作家の手になる絵画ないし平面作品を無条件に受け入れ、展示するという独自の展      覧会。上野の森美術館で開催。

[註27]天野一夫『曖昧なる境界ー影像としてのアート 展』展覧会カタログ     (財団法人品川文化振興事業団O美術館 1998年)11項

[註28]同上 23項

[註29]水綿・青味泥 接合藻類の淡水緑藻。糸状・毛髪状をなし、田・池などに生える。葉緑体      は螺旋状、種類により一または数本レ合して厚壁・褐色の接合胞子を作る。

[註30]南雄介『MOTアニュアル 1999 ひそやかなラディカリズム』 展覧会カタログ     (東京都現代美術館P999年)13項

[註31]同上 14項

[註32]清水穣訳『ゲルハルト・リヒター[写真論/絵画論]』     (淡交社 1996年)9

[註33]ロラン・バルト 花輪光訳『明るい部屋ー写真についての覚書』     (みすず書房 1985年)144項

[註3ロラン・バルト 花輪光訳『明るい部屋ー写真についての覚書』     (みすず書房 1985年)146項 [参考文献]

市原研太郎『ゲルハルト・リヒター =ペインティング・オブ・シャイン=』 (ワコウ・ワークス・オブ・アート 1993年)

清水穣『不可視性としての写真 =ジェームス・ウェリング=』 (ワコウ・ワークス・オブ・アート 1995年)

清水穣訳『ゲルハルト・リヒター[写真論/絵画論]』 (淡交社 1996年)

菅原教夫『現代アートとは何か』 (丸善株式会社 1994年)

菅原教夫『やさしい美術ーモダンとポストモダン』 (読売新聞社 1992年)

木下直之『写真画論』 (岩波書店 1996年)

ロラン・バルト 花輪光訳『明るい部屋ハ真についての覚書』 (みすず書房 1985年)

ヴァルター・ベンヤミン 野村修編訳「複製技術の時代における芸術作品」 『ボードレール 他五篇』(岩蒼X 1994年)

今村仁司編『現代思想を読む事典』 (講談社 1988年)

中原佑介監修『現代美術事典』 (美術出版社 1984年 ホイジンハ 坂井直芳訳『わが歴史への道』 (筑摩書房 1970年)

堀越孝一「マニエリスムへ」『遊ぶ文化』 (小沢書店 X82年)pp.65~81

『Gerhard Richter Landscapes』 (Cantz Verlag 1998年)

KIM LEVIN『CHUCK CLOSE:DECODING THE IMAGE』 (Pace Publications 1979年)

穴沢一夫・本江邦夫編『フリードリヒとその周辺』展覧会カタログ (日本経済新聞社 1978年)

天野一夫『曖昧なる境界ー影像としてのアート 展』展覧会カタログ (財団法人品川文化振興事業団O美術館 1998年)

南雄介『MOTアニュアル 1999 ひそやかなラディカリズム』展覧会カタログ (東京都現代美術館 1999年)

『アート/生態系 美術表現の「自然」と「制作」展』展覧会カタログ (宇都宮美術館 1998年)

藤縄千艸編『ドイツ・ロマン派画集』 (国書刊行会 1985年@    

井上靖・高階秀爾編『ターナーとロマン派風景画』 (中央公論社 1994年)

『国立国際美術館 月報12号』 (国立国際美術館 1993年 9月?)

島本融「さまざまのトロンプルイユ」『美術手帖 7月号 No.383』 (美術出版社 1974年)

三木多聞「変貌したリアリズムをめぐって」?術手帖 7月号 No.383』 (美術出版社 1974年)

「ゲルハルト・リヒターの20作」『美術手帖 4月号 No.722』 (美術出版社 X96年)pp.14~64

「希望のペインティング」『美術手帖 2月号 No.752』 (美術出版社 1998年)pp.198~210

「朝日新聞」

「日本経済新聞」

「読売新聞」

「毎日新聞」