トローゼ通りの堀削り工事
ウィン・リューウェリン、二人の友人力ルヴアート・リチャード・ジョーンズ師、ジョージ・W.ブリッジズがいた。友人の二人はいずれもカロタイプで国外旅行の記録をつくることを着想している(第3章を参照)。紙の写真術がもっと意義深い反応を引き出すことになったのは、特許認可の手続きを必要としなかったスコットランドにおいてだった。優れた科学者でタルボットと頻繁に文通していたデイヴィッド・ブルースター卿の助力によって、カロタイプの技術を身につけたスコットランド人薬剤師ロバート・アダムソンは、1841年にエディンバラでスタジオを開いた。そして2年後、彼と画家でリトグラフも手がけたデイヴィッド・オタタヴィアス・ヒルとのカロタイプ制作が行われはじめる。彼らが撮影したのは主に肖像で(第2章を参照)、今日でもこの表現媒体を使った作品のうちもっとも表現力に富んだもののひとつとして評価されている。自分の発見を商業的に展開させていくことにタルボットはそれほど熱心だったといえないが、この技法に潜む用途の広がりには鋭い関心を向けていた。助手として養成したニコラス・ヘンネマンに手配させてレディングに出版工房を設け、タルボットはそこで本や雑誌の挿画に写真印画を使う計画をすすめた。1844年から46年までに順次刊行された『自然の鉛筆』は、タルボットによるテキストと画像を収めたもので、写真術の科学的・実用的な応用方法を説き、図解してみせる最初の出版物となった。収録図版のひとつ《開いた扉》(図23)について、あるイギリスの雑誌は、特にその厚みのある調子表現、逐語的な正確さ、「人間の手で描かれたものを無効にするほどの顕微鏡的な仕上がり」をほめ讃えている。タルボットは写真術の第一の意義を、事実の視覚的証拠を提供できるというところに見ていた。しかし《開いた扉》をタルボットの母親が「ほうきのひとりごと」と名づけていたことにもうかがわれるように、彼は身近な事柄を芸術的に取り扱うことにも興味を息づかせていたのである。このような主題のもと、光と影がつつましい一情景をピクチャレスクに染めあげていくさまに注意を傾けているあたりに、彼が17世紀オランダの風俗画などに親しんでいたことがうかがわれる。その種の絵画作品は、ヴィクトリア朝時代のイギリスでは非常に好まれていたようで、『自然の鉛筆』の文中でも特別に言及されている。これと似たスタイルのカロタイプ画像は他にも撮られており、絵筆をふるう能力のない者にも写真術は芸術的な表現のための手段を与えるというタルボットの確信を証するものとなっている。タルボットの出版物としては、他に『スコットランドの太陽画』があり、1844年制作の23点の写真が収められている。また『スペイン芸術家年鑑』は、写真術を芸術作品の複製のために利用した最初の本となった。ところが、レディングの工房は1848年に閉じられてしまう。大規模な写真印画事業を運営していく上での、経済面・技術面の難題がふりかかってきたためだった。カロタイプの画像が消え去りやすいものだったことも、理由として見逃せなかった。画像の不安定さは、それからの25年間を通じて、紙印画をつくろうとする写真家たちを困惑させつづけたのである。
a world history of photography
写真の歴史
ナオミ・ローゼンブラム
大日方欣一 森山朋絵 増田玲 井口壽乃 浅沼敬子
飯沢耕太郎
1998.06.08
株式会社美術出版社
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