多摩美術大学90周年記念誌|多摩美術大学
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─………勧めた。金原君等の意見では美術学校としては有力なものは上野に一つあるだけであ野の美術学校と匹敵するような美術学校を造つたならば、自分等の学校のみならず、者となつて居ることを聞き「学苑」に同君の寄稿を乞ふてゐた。1929–1934北昤吉「『祖国』だより」より抜粋◎僕が同志と共に帝国美術学校を創設したのは一昨年の十月である。之は極めて偶然の機縁から生じた。僕が早稲田に教鞭を執つてゐた当時の学生に金原省吾君といふ学生がゐた。…金原君は学校卒業後東洋美術の研究に入り、此の方面では日本の権威◎斯くして一年も経つと、金原君及び其の友人等が僕を訪問して、美術学校の設立をるが、収容人員には限りがあるし、日本人の美術愛好心は仏人の夫れに優り、将来益々有望であるから、一つおやりになつては如何かといふ。◎僕も美術は素人であるが、帝展に対立して院展があり、帝展の洋画部に対立して、春陽会、二科会のあるのが、日本の美術の振興に何程貢献するか知れない。一つ上上野の美術学校にも好影響があるだらうと考へられる。殊に上野には日本美術界の功労者が教鞭を執つて居るが、過去の功労者必ずしも、現在の実力組ではない。一つ新しき美術学校を造つて、実力のある作家に教授を御願ひし、更に学問の方も上野教授以上の新進の人々に御願ひしたならば、日本の美術界に貢献することが出来ようではないかと考へた。◎併し僕には金がない。金がなくとも、熱心に説けば何人か賛成する人があらう。始めは貧弱でも、学校はメークされるものでなく、教師と学生の力で自然にグローするものであると考へ、兎も角も机上の空論を廃し、実行に取りかゝらうではないかと考へて、僕の懇意にして居る大東文化協会理事であつて文化運動に多大の理解ある木下代議士に相談して見た。画像提供:武蔵野美術大学美術館・図書館創立前夜――帝国美術学校設立北 昤吉北昤吉主幹の学苑社が発行した雑誌『祖国』第4巻第1号(1931年1月発行)雑誌『祖国』第4巻第1号

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