─… 携わる者にとって、とりわけ「自由」は輝くものであり、最大の喜びであった。これさえ越で戦後第1回の作品展が開催され、24年3月には学校誌『多摩美術』が復刊した。『多摩美術大学50年史』(1986年11月発行) (藤谷宣人,江尻勤)1947年(昭和22)4月、多摩美は再生した。新たに「多摩造形芸術専門学校」の名の1946年(昭和21)11月新憲法が公布され、日本はいよいよ新しい時代、社会ヘスター下に新入生を迎え、校長には井上忻治教授が就任した。教授スタッフも多摩帝美時代のおもな人が参画した。しかし、授業は上野毛ではない。軍需工場跡地の払下げを受けた溝ノ口の仮校舎であった。ここでは机、椅子といった最も基本的な備品も皆無に等しく、工作台が机に使用されるなど苦労話は多い。学生の恰好は軍靴にカーキ色の服、つまり復員姿である。トした。新憲法の下に、22年3月には教育基本法、学校教育法が公布され、学校もすべて新たな変身を求められた。それまで何かにつけて多くの制約をうけてきた美術にあれば、何でもできると限りない希望が湧いたという。1948年(昭和23)3月、銀座三創造への意欲がみなぎりはじめていた。「授業再開と戦後の復興」より抜粋戦後最初の展覧会ポスター(1948年)溝ノ口での卒業式(1951年3月)『多摩美術』戦後復刊第1号(1949年3月発行)1946–1952溝ノ口校舎は木造3階建,元軍需工場を校舎として使用した多摩造形芸術専門学校・多摩美術短期大学の時代
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