多摩美術大学|サーキュラー・オフィス 2023 年度 活動報告書
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11齊藤さんが専務理事を務める一般社団法人大崎町SDGs推進協議会が運営する「OSAKINI PROJECT」。リサイクル率12年連続⽇本一の鹿児島県大崎町を舞台に、持続可能な社会を作るプロジェクト。だったので、まずは「どこで学ぶか」「どこで生きるか」を大切にした方が良いと思ったんです。 9.11の後、友人と一緒に1ヶ月ほどニューヨークに滞在することになりました。すると、社会システムが日本とあまり変わらないことに気が付きました。そこで、もっと刺激になる場所を探して留学したのが中国だったというわけです。当時は北京オリンピックの前で、中国経済が成長していた時期です。そういう所に行った方が、全然違う価値観を得られるんじゃないかと思ったのです。どこで生きるか。中国の美大に飛び込む中村 高校を中退したということですが、その決断に至った背景は? 小中学校のときから、作ることが好きだったとか。齊藤 ただ作ることが好きというよりは、世の中に対して非合理的なものを感じていたというか。小学校の頃、教室でお腹痛くなっちゃう子だったんです。じっとしていなきゃいけないことがストレスで、小学校の在り方も「非合理的だ」と考えていました。「何のために学ぶかのか」という答えがない状態で、みんなが同じような授業を受けている。そこに合わせていくことがストレスでした。中学生になって、それがさらに顕著になりました。かといって、進学以外の代案がなかったため、仕方なく高校に進学したんです。でもやっぱりモヤモヤしていました。 そのとき友達に、「何か作りたいんじゃないの」と言われて。「多分そうだ」と思って美術の門を叩いたんです。美術には寛容な側面もたくさんあるので、自分としては居心地が良かった。行きたくない高校に行くよりも、早い段階から、デッサンや粘土に集中できる時間を取った方が良いと思ったんです。中村 中国の大学に進学される際、彫刻科を選んだ理由はあったんですか?齊藤 彫刻というのは、中国に行く前から自分の中で定まっていました。絵を描くことよりも、形を作っていくことの方が自分の感覚に合っていました。 中国の美術大学は倍率がものすごくて、百何十倍みたいな世界なんですよ。でも僕は合理性を持って入学したかったので、色々な試験をスキップして、交渉で入りました。中村 交渉の余地があったんですか?齊藤 ありました。日本の予備校で作った作品をポートフォリオにまとめて、「僕にはすでにこれだけのバックグラウンドがあるので、2年生のクラスに入れてくれ」と言って入学しました。また、本来ならば入学の際に「HSK」という中国語検定の資格を見せる必要があるのですが、それもスキップしました。入学後に中国語がしゃべれるようになってから、直接事務室を訪れて「しゃべれているんだから問題ないでしょ」と直談判しました。中村 動き方がすでに作り手の発想ですよね。「全ては交渉の余地がある」って(笑)。入学後はどうだったんですか? 以前、「つくったものをギャラリーに展示したところで、それが『作品』として完成するわけではない」と話していたのが印象的でした。齊藤 少し前から、「作品としてのものを作って展示する」という行為から脱却する方法を考えているんですよ。僕にとって、彫刻は「関係性の美術」。顔にしろ身体にしろ、形は上下左右のバランスによって美しさが決まり、それを「もの」としたものが、現在マーケットに流れている作品だと思うんです。 僕は、社会だったり、色々な物事においても、「関係性を構築することで、美しいものが作れる」という感覚です。なので、「社会に対してアプローチして形を作っていくことも可能だろう」と思っています。とはいえ、それを作品化することを考えたら、1度どこかで発表というアクションを取る必要があるとも考えているんですけど。中村 展示は1つの方法で、「世の中に知ってもら

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