13中国にいたころに通った、大学付近にあった「798芸術区」について、「ニューヨークでいうソーホーやブルックリンのような雰囲気の場所でした」と解説する齊藤さん。内包されて生きたいし、作っていきたい。そんな考えが確立されていったのが、この時期でした。なくなって、「源流を見に行かないといけない」と、中国の大学も切り上げさせていただきました。中村 毎回思いつくと、すぐに行動に至るのです ね(笑)。齊藤 その次は、知り合いがニューヨークで活動していたので、そこに転がり込みました。印象は「勝負するために行く街」。作家が自由に創造するよりも、いかにその中でのし上がっていくかを競う、マネーゲーム的な側面がありました。アート活動のコミュニティも潤沢で、コミュニティに属して社交界で振る舞わないとのし上がれない雰囲気を感じて、自分には合っていなかったですね。それで3ヶ月ほどで、次に行きました。中村 2007年からは1年間ベルリンに滞在されていたんですよね。齊藤 無職、プー太郎に近いですね。語学学校に通ったり、美大に潜ったり、知り合った作家のお手伝いをしたり。でも、そうやって「ただ過ごした」ことが大きかったと思っていて。 当時、ベルリンには東西の冷戦の影響が残っていて、作家は旧東側に住み着いていました。家賃も安くて、ボロくて広い家がいっぱいありました。「カフェでアルバイトをしながら、広い部屋で制作する」という生活が当たり前にできたんです。「そういうのがおもしろい」と、作家がどんどん入って来ていました。様々なコミュニティがあって、その中には必ず絵描きだのアーティストだのが混ざっている。そこそこ広い場所があって、おもしろいやつらがいっぱい。楽しいですよね。中村 家賃が安かったり倉庫街だったりした場所って、作家が一気になだれ込むように押し寄せたりしますよね。それで、その街を改変してしまったり。齊藤 そういうことが起こっていそうな街を狙いました。北京もニューヨークも、ベルリンも。そして、僕の仮説は正しかったなと。 作家は、ある種の潰れてしまったエリアにおもしろがって入っていく。生態系に例えると、動物の死骸の中に微生物がワーッと入っていって、そこから土壌を耕していく機能に似ています。そして、そういう現象はどこでも起きる。僕はそういったものに富士吉田で作家と盛り上がる仕組みを作る齊藤 2007年ごろになると、日本でも地域をフィールドにしたアートプロジェクトが増えてきていて。「日本でもニューヨークやベルリンのような場所が再現できるんじゃないか」と思って帰国したんです。それで、手始めにそういうことができそうなエリアの自治体にアプローチしたのですが、けんもほろろな状態で(笑)。 同時に、日本の自治体と関わる中で、自分が同じ言語をしゃべれていないことを実感しました。「本気で地域政策をやりたいなら、同じ言語で会話できるようにならないと駄目だ」と思って、慶應義塾大学のSFCに入学したんです。 日本の地域政策に加えて、日本のアートシーンや市場などを勉強しながら、「アートの価値をどう図っていくべきか」を改めて考える機会を設けました。中村 専攻でいうと、総合政策学部の地域行政とか、そういうところですね。齊藤 でも、大学2年生くらいになると、日本の大学に矛盾を感じるようになった。というのも、大学生になったとたん、日本の社会が自分を受け入れてくれるようになって。「今も昔も、自分がやっていること、学んでいることにはそこまで違いがないのに、作家がなだれ込む街、ベルリン
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