172003年に環境省に入省後、2007年にはレンジャーとして新潟県の佐渡島に渡り、トキの野生復帰プロジェクトに関わった大正大学 地域構想研究所の岩浅さん。 けれども結局のところ、自然保護だけではなかなかうまく立ち行かないところがあり、私の故郷もどんどん元気がなくなってしまった。そこで現在は、「地域の資産である自然を活用し、地域そのものを元気にして、結果として自然を守る」という目的で、社会実装を中心に、国の政策や自治体に対するアドバイスを行っています。中村 環境省で得た一番の学びは何だったんですか?岩浅 「地域住民との信頼関係の重要性」でしょうか。これはまさにトキの野生復帰プロジェクトで学んだことです。レンジャーを志す人には自然が好きな人が多いのですが、実際は「人相手」の仕事。地域の人たちとの信頼関係を構築できないと、協働の枠組みが広がっていきません。 また、レンジャーは2~3年で異動するため、地域住民から「どうせすぐに異動するんでしょ」と思われてしまうところもあります。そのため、「いかに地域住民と一緒に新しい仕組みを作るか」「いかに自分がいなくなっても回る仕組みを作るか」が重要なのです。中村 以前、「地元住民はトキの野生復帰プロジェクトを応援してくれるだろうと思っていたら、そうでもなかった」と仰っていましたよね。岩浅 そうですね。トキは、江戸時代は日本のどこにでもいる鳥でした。しかし明治時代の乱獲が原因で、大正時代末期には絶滅したと考えられていました。戦後になって、佐渡と能登に30羽程度のトキが生息していることが分かったのですが、時代とともに生息環境が悪化し、最後には野生の5羽を残すのみになりました。そこで、1981年にこのトキを捕まえて人工繁殖で増やしていこうとしたのですがうまくいかなかった、という歴史があります。その際、地元はトキを捕まえることに反対という意見も多かったのです。 その後は、国や県が、トキの保護増殖事業を行っていました。その活動が実ってトキの数が増えたので、いよいよ放鳥ということになりましたた。「地元は盛り上がっているだろう」とわくわくしながら佐渡に赴任したら、周囲はけっこう冷めていて(笑)。中村 そこから最終的に盛り上がっていくまで、どういうプロセスを辿ったんですか。岩浅 ちょうどそのころ、『BIOCITY』という雑誌で、国際自然保護連合(IUCN)の主席研究員であるジェフリー・マクニーリーさんが、「生きものに焦点を当てた野生生物の保護プロジェクトは失敗する」と書いていて。私はトキのことばかり考えていたので、「このままだと失敗する!」と焦ったんです。 そこから、「トキを活用することで、いかに地域コミュニティ、そして地域の産業を良くしていくか」に視点をシフトさせていきました。そこで出た政策が「朱鷺と暮らす郷づくり認証制度」です。中村 放鳥のための環境作りも大切だったのではないでしょうか。岩浅 プロジェクトの転換期は2004年。台風や熱波の影響で佐渡の米がほとんど獲れなかった。そこで当時の市長が、「トキを活用したお米のブランドを作ろう」と提唱したんです。これが、環境政策と農業政策が政策統合した瞬間でした。 最初に、佐渡の担当者が兵庫県・豊岡で「コウノトリ育む農法」を視察したのですが、この農法は「農薬・化学肥料はほとんど使わない」などハードルが高く、佐渡全域に行き渡るか疑問があった。そこで、「まずはいかに手元のお米を売るか」に注力し、みんなが乗りやすい、従来の半分に農薬・化学肥料を減らすなどの枠組みを作りました。同時に、地域における座談会などを通じ、トキに対する理解度も広がっていきました。中村 途中から新潟大学の豊田光世さんも取り組みに加わりましたよね。豊田さんは対話型の哲学を専門にされているだけあって、地元のコミュニティに地元は応援してくれない?
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