24 私が特に興味深く感じているのが、「雑な修復」。例えば、日本の地方なんかは維持できなくなった茅葺き屋根をトタンで修復していたりしますよね。それを「見苦しい」と言う人もいますが、「ハイブリッドに新旧の素材が入っている」というような見方もできるんじゃないかと思ったりして。 国によっては、自国の建造物の中に敵国から奪った戦利品を組み込むこともありますよね。例えばイタリアでは、ベネチアの聖マルコ大聖堂に、コンスタンティノープルなどから略奪した柱や馬の銅像を組み込んでいます。そうすると、先ほどの文脈に比べてもう少し積極的な意味合いが出てきます。 インドではイスラム教がヒンドゥー寺院を破壊して、その跡地に記念塔を建てています。イスラム教は偶像崇拝禁止ですが、壁面にヒンドゥー教の偶像のディティールが消えないで残っている。そういうこともあって、「こうしたものにプロセスを残す意味はあるのか」など、いろいろな考察が進みます。 美術作品は、素材などの「いらないもの」を見えないようにすることでコンセプトが純化すると思いますが、「黒歴史をそのまま見せる」ことに当事者の息遣いや文脈が見えると思うんですよね。 身の回りのものには、そういった「混ざりもの」があります。美術作品では、こうした部分を作家の意向で消したり、一元化したりすることが多いけれども、それはすごく異常なことではないかと思います。木村 日常とは切り離された表現、ということですよね。青野 身の回りのものを見直していくと、様々な意味合いが隠されています。日本では、仏壇などを塗り直して新しくすることを「お洗濯」と言いますが、これと似た概念は海外にもあるんですよ。 例えばインドでは、神様の像を住民たちが都度メンテナンスしています。メンテナンスという行為自体が信仰と結びついていて、大きな意味合いを持っている。そうすると、見え方もどんどん変わっていくんですよね。特に神様の像などの神聖なものが相手だと、そういったことが長年積み重なることで、元の姿が膨らんで違うものになっていく。私はこれを「後天的付加価値」と呼んでいます。 日本の神社でも、神社に捧げられた供物は1年ごとにお焚き上げしますよね。いらなくなったものを焼いて、新しく循環していくという。焼いてなくなるものもあるんですが、循環という意味では重要なことですよね。ねぷたでも、祭りが終わった後は燃やして穢れを払うとか。このような循環の中で、造形物が役割を果たしていたということもあるんですが。更新されるごとに、解釈が少しずつずれていく青野 美術の歴史からすると、こうした循環の輪から自立してコレクション化されたものが美術作品として確立していくんでしょうが、私としては、循環の輪に結びついた造形物の在り方に興味がありました。(青野)破壊も再生も、『循環する』という意味では再生が重要になるわけですよね
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