25「修復すると、必ずどこかに違う文脈のものがあり、どこかにずれが生じている。逆にそのずれがない場合、修復は人々に忘れられ、気付いてもらえません」と青野さん。されていくことがあって、これは歴史問題にも存在する微妙な問題です。「完全に確定されたもの」を繰り返しているわけではなく、1度失われてしまったものは残りを想像で補われていくので、どうしても違う軸のものが共存してしまいます。 作品も、身の回りのあり合わせのものを材料として継ぎ足していくことで、異種混合というか、そういう作品になっていきます。 拾ってきたものの中には、原型がはっきりしないものもあるんですよね。どのように使用されていたのか分からないものも多いです。すると、当然想像が入るわけです。過去の欠片と言うんですかね。そこにどう向き合っていくかで、意味合いが大きく変わってきます。 震災では、宮城県は松島を除いてほとんどの海岸が津波の被害を受けました。それで、「そういった場所から被災物を拾ってくるのは迷惑かな」と思ったんです。なので最初は、被災物を1~2個だけ拾ってきて終わりにしようと思っていた。 私の頭の中には、金継ぎというキーワードもあったのですが、そういうものには縁がないし「身の回りのものでやらないと」と考えました。それで、「自分で燃やして、自分で直す」という手法を取ることにしたんです。 当時は大学のキャンパス内に同僚の学生などが作った首なんかが落ちていたので、そういったものを焼いていました。焼いた後に着色を繰り返したりなどして、自分の作品にしていきました。破壊と創造のようなことを繰り返していましたね。あとは木製のパネルを燃やしたあとに修復して、抽象画のようなものを作ったりとか。 けれど、こうしたことをずっとやっていると、だんだん上手になって、「普通の抽象画に見える」と言う人も出てきました。そこで、自分で焼くのはやめました。「自分でやるのは、直すところだけでいい」と思い、最初から壊れたものを拾ってくるようになりました。それで、1996年ごろにようやく今のスタイルに辿りつきました。要は、修復は「混ざりもの」ということですかね。自分が作ったわけではない古い部分と、自分が追加した新しい部分が結びつくことで、違う文脈、違う時間のものが共存します。 上手にやると、どんどんつぎ目が分からなくなっていく。「いかに分からないようにするか」という場合もあるんですが、修復すると、必ずどこかに違う文脈のものがあり、どこかにずれが生じている。逆にそのずれがない場合、修復は人々に忘れられ、気付いてもらえません。そして、「完全な修復はない」という結論に達しました。 また、修復は「繰り返し」でもありますが、繰り返しには2パターンの効果があると考察しています。1つは「意味が強くなる」。基本的に、繰り返すほど意味は強まっていくと考えられていますが、繰り返していると意味が逆になったりもします。最初は「大事なものだから直すのかな」と思っていたのに、だんだん「直すから大事なものなのかな」と思い始めたりします。 もう1つは、繰り返しによって「意味や価値が薄れていく」。例えば、1つの言葉を何回も繰り返していると、その意味から意味がなくなっていくことがありますよね。違う意味というか、その奥に別な意味を見出さざるを得なくなります。 解釈は人の手によって、少しずつずれながら更新タンスの引き出しに、記憶の欠片が入っている木村 青野さんは、震災で流されたものを被災物と表現されているんですよね。当時、マスメディアではこれらを「がれき」と表現していました。でも、当事者からしてみれば、自分たちの思い出がつまったものをがれきとしてひとくくりにされてしまうのは、あまりにも苦しい。リアス・アーク美術館の現館長である山内宏泰さんも、「がれきではなく被災物と言ってくれ」と異議を唱えていました。だから、
元のページ ../index.html#27