多摩美術大学|サーキュラー・オフィス 2023 年度 活動報告書
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27サーキュラー(円環)の概念から弾かれて、円環の周りを漂うモノに対して考えるきっかけとなった。「どんな枠組みでサーキュラーを捉えるか?」という視点は非常に重要である。つまりマテリアルで捉えることの暴力性や効率主義は、モノに宿った精神的な性質を考慮していない。東⽇本大震災時はガレキという名のマテリアルで整理された巨大な山が出現した。そこには何代にも渡って大切にされてきた仏壇や、亡くなった子供の写真も含まれていたかもしれない。地域で伝承されてきた文化や、個人の愛情も円環の中で伝わるべきことであるし、アーティストの役割とは効率化という円環からはみ出てしまい、着地点を失った事柄に向き合うことであると思う。レクチャーのアーカイブ映像を、サーキュラー・オフィスのWebサイト(https://circularoffice.tamabi.ac.jp/)やYouTubeチャンネル「TUB Tama Art University(多摩美術大学 TUB)」で公開しています。ぜひご覧ください。人っぽいというか、人の抜け殻のようなものができるようになってきました。 私は、街が復興していく過程で色々と思うところがありまして。例えば、復興では流されてきた瓦や小石を、土地を埋め立てるための材料にしたのですが、そうすると最終的には街の痕跡がまったくなくなっちゃうんですよね。私が知っていた街は、震災の直後ではなく、震災の5~6年後に完全にこの世から消えてしまったんです。 流されてきたものたちは種類ごとに分別されて、大きなピラミッドを築いていました。瓦は瓦、小石は小石、砂利は砂利といったかたちです。 これに対して当時、ナチス・ドイツのアウシュビッツ強制収容所との嫌な類似点を感じたんです。アウシュビッツでは、収容所の人たちの靴やかばん、髪の毛をそれぞれ1箇所に集めてエネルギーとして利用しようとしていました。労働ができなくなった人たちからは、銀歯などが抜かれたそうです。非人間の極地のような行いですが、実は被災地でもそれに近いことが起こっていたんじゃないかと思って。 上記のがれきに関してもそうです。利用できるものと利用できないものに分けて、利用できるものは再利用し、利用できないものは埋め立てたり、焼却したりする。 最初のころは「被災物を作品にするなんて」と言われることもあったんですけど、結局のところ、作品にしないと何もなくなっちゃうんですよね。「燃やすのではなく、残しておくべきものなのではないか」と思ったというか。 何が言いたいかというと、ものそのものを分解してしまうと、重要なものが分からなくなってしまう。エネルギーにはなりますが、永久に失ってしまうものもある。エネルギーにすべき部分と、永久に保存すべき部分。そこを見極める必要がありますね。 結局、私の制作と震災が結びついたのは、街や人などの「循環できないもの」を保存するというか、浮かび上がらせるというか、そういう逆説的なことに帰着していたのではないかと、今は思います。円環から弾き出され、漂うモノたちへ──木村剛士(木村)『道路工事』などの日常生活レベルの修復と、自分の制作行為がつながっている感じでしょうか

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