TAMABI NEWS 87号(日本画の伝統を超えて自由な発想が生まれる理由)|多摩美術大学
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校に進学。学徒勤労令で学業を一時中断するも、終戦後に復学し、1950年に春季創造美術展で初入選を果たした後は、日本画家として正道ともいえる道を歩み始めます。一方、1920年に新潟で生まれ育った横山操は、子どもの頃から絵が上手く、14歳で画家を志し上京。銀座でデザイン会社を経営する画家の内弟子となり、版下やポスター描きなどを手伝いながら絵画制作に励みました。その後、日本画に転向し、1939年に画学校に入学するも、その翌年の1940年12月に召集。中国戦線で兵隊生活を送り、終戦後も1950年に復員するまでソ連の捕虜収容所での過酷な石炭採掘に従事させられました。 このように生まれも育ちも対照的であった加山と横山は、1950年代後半に入ると、それまでの日本画の概念を覆す画家として頭角を現し始めます。この頃の加山の作風は、ラスコー壁画やルソーなどの影響を受け、大胆なモチーフによる革新的な作品を次々に発表。横山も、赤黒いマグマが噴き出し山の裾野にまで広がる様子を描いた幅4メートル超の大作《炎炎桜島》など次々と代表作を発表し、脚光を浴びました。 加山と横山が初めて出会ったのは、1957年に東京で開催された加山の個展会場でした。それから間もなく一緒に食事をする機会があり、意気投合したとのこと。それが縁となり、1965年からはそろって本学の日本画教育に携わります。共に40代前後という年齢で、人間的にも作家的にも充実していた時期でした。加山は教員としての横山について「考えようによれば、あの人ほど優れた美術大学教授は一人もいないといっても過言ではないと思う。(中略)横山さんにとって、大学教授としての生活は、彼の暗い、閉ざされた青春を取り戻す、実に楽しい場であったようだ。(中略)もちろん私も、これからの日本文化に、この若者たちの力で少しでも何か新しい意義を付け加えたいと、必死な想いであった」と述懐しています。[加山「追悼・横山操 賢兄、横山操逝く」 P.63より引用] 二人がどのような学生の育成を目指していたか、当時の日本画専攻の入試要項にはこう記されています。「1学年では、植物写生等の細密画描写により、対象物を正しく把握し、基本的技術と描写力の養成に徹する。2学年では、対象物の実体を多面的に把握しながら想像力を養うことを目的とし、3、4学年では主体性と自発性に基づく創造活動を掲げ、卒業制作に至るまで一貫して『自由』な制作を試みさせる・・・」 「各自の主体性、自発性」「作家としての創造活動」「自由な制作」。この3つの理念こそが、加山と横山が目指した多摩美の日本画教育の姿であり、■タマビDNA■の『核』であるといえます。 力強い言葉で書かれたこの文章は20年以上も入試要項に掲載され、本学日本画専攻の教育方針で在り続けました。生まれも育ちも対照的な加山と横山でしたが、苦境にあっても絵を描き続ける精神力と実行力は共通しており、その情熱は戦後の日本画の潮流を変え、多摩美の日本画教育の在り方も変えていきました。お互いに深い信頼関係を築いていた二人が手を携えて教鞭を執ったことにより、因習や伝統を超えて自由な発想による日本画教育が生まれたのです。二人がもたらした■タマビDNA■を受け継いだ教え子たちは今、日々そのDNAを発展させています。日本画の伝統を超えて自由な発想が生まれる理由横山操 《闇迫る》 (1958)181×455cm 福島県立美術館所蔵© Masao Sugita 2021 /JAA2100025Kayama MatazoYokoyama Misao横山操新潟県燕市出身。戦後の日本画壇の風雲児と称された日本画家。戦時中には召集されて捕虜生活を経験し30歳で帰国。以後大胆かつ豪放な大作を次々と発表。晩年は病に苦しみながらも筆をとり、叙情あふれる色彩豊かな作品や水墨画など意欲に満ちた作品を描き続け、後に続く作家たちに大きな影響を与えた。京都府生まれの日本画家。祖父は四条・円山派の絵師、父は京都・西陣織の衣装図案職人で、幼少期から絵を描くことに親しんだ。日本画家・山本丘人に師事。師の山本ら13人の画家たちによって結成された創造美術(1948年発足、後の創画会)にて、戦後日本画の革新を担う1人として活躍する。加山又造 《雪月花》 (1967)168×355.7cm イセ文化財団所蔵05自分の意思で、自由に創造する学生を育てる加山又造TAMABINEWS

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