TAMABI NEWS 89号(世界基準を、超えていく。)|多摩美術大学
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1963年 多摩美術大学デザイン科に入学 69年 大学院生、法定最年少25歳で本学評議員に  髙橋教授が多摩美に入学した1963年は図案科からデザイン科に名称変更が行われた年で、工業デザイン(立体)の1期生にあたります。同時期の本学には後に<もの派>として知られる関根伸夫や吉田克朗、菅木志雄、メディアアーティストの幸村真佐男など錚々たる面々が在籍。髙橋教授は文芸部の創設に携わり、同人「群鳥」の活動にも参加していました。日本を代表するインテリアデザイナーの剣持勇教授に教わり、67年に立体デザイン科を総代として卒業後は本学助手に採用され、翌年には大学院デザイン専攻に進みました。 一方で、60年代は日本の学生運動の全盛期でもあり、学内でも数々の紛争が起こっていました。髙 髙橋教授は1970年にデザイン科立体専攻の専任講師、76年に同助教授、89年に同教授となり、後進の指導にあたりました。そのDNAを受け継いだ数多くの教え子たちが社会の第一線で活躍しています。中には髙橋教授と同じように母校に戻り教壇に立つ人も。81年立体デザイン卒業生で現在教務部長を務めるプロダクトデザイン和田達也教授もその一人です。「講義の内容はものすごくスピーディかつ難解で、独自の言葉で表現されていた。僕らはなんとかして先生にくらいつこうと必死でした。心をぐっとつかまれて、この人のもとで勉強したいという気持ちがあった。学生時代も、多摩美の教員になってからも、いつも士郎先生の背中を追いかけている気がします。そういう方に教えてもらったということが、僕の中のひとつのアイデンティティでもあり、誇りでもあります」(和田教授) 銀座ソニービル「エレクトロマジカ展」で 立体機構シリーズを発表、造形作家としてデビュー 1970年 デザイン科専任講師、大阪万博で巨大モニュメント制作 72年 銀座で初の個展開催。気膜造形を発表 73年 「第1回国際コンピュータアート展」企画・開催橋教授が助手兼大学院生だった69年には1年間の全学授業停止が余儀なくされる事態に。当時の村田晴彦理事長のもと教育体制の建て直しを図るべく刷新された理事会で、髙橋教授は私立学校法で定められた最年少の25歳で評議員に選出。翌70年には専任講師となり、以後長きにわたって本学の美術・デザイン教育を担うこととなります。 また、69年は髙橋教授が「エレクトロマジカ展」で立体機構シリーズ ≪揺れる立方体≫ を発表し、造形作家としてデビューした年でもありました。建畠晢学長が初めて「高橋士郎」の存在を知ったのもこの時です。「シャフトで作られた、回転して揺れ動く塔のような作品で、その面白さに衝撃を受けるとともに高橋さんの名前が私の頭に刻み込まれました。作品から想像するにシャープでダンディでクー 作家としての活躍も華々しく、70年の大阪万国博覧会で立体機構シリーズの巨大モニュメントを制作し大きな話題となったほか、72年には銀座で初の個展を開催、後の「高橋士郎」の代名詞ともなる気膜造形『バボット』を発表しました。71年にはフランスのシェル石油のデザインコンペティションで得た賞金でヨーロッパ各国横断1万kmを、75年にはオランダ・アムステルダムからイラン・イスファハンまでを車で走破。78年には国際交流基金よりタイへ長期芸術家派遣され、同国内のすべての美術学校を訪問するなど、世界を自分の目で、手で、足で確かめました。 73年に本学文様研究所の研究所員に就任し、幾何学文様研究を担当。76年には日本デザイン学会でイスラム数理造形研究「ムカルナス(回教建築の鍾乳石状装飾)」を発表し、本学の研究紀要にも創刊時から論文を投稿するなど、研究者としての活動も精力的に行いました。 展覧会ポスターを石岡瑛子氏が作成 1976年 助教授、日本デザイン学会で「ムカルナス」発表 78年 国際交流基金よりタイへ長期芸術家派遣 84年 新宿で個展「新しい空気膜ロボットの遊び展」開催ルな人という印象でしたが、実際にお会いするとものすごくホットな方で、そのギャップにも驚きました」(建畠学長) 建畠学長は91年に芸術学科助教授、95年に同教授に就任しています。96年から教務部長を務めていた髙橋教授に対し、より魅力のあるカリキュラムにするための改善を学科として再三要求していました。「すぐにはできないこともあるけれど、どんどん言いなさい、要求しなくなったらおしまいだよ、とおっしゃるんです。各学科がエゴイスティックに努力するエネルギーの総和こそが多摩美の原動力だと考えていらっしゃったんですね。とても大事な考え方であると納得しました。学園紛争の頃から常に多摩美のことを考え、発展させるために尽くしてきた人。深い愛を感じました」(建畠学長)70年代からマイコン制御による作品を多数発表してきた髙橋教授は、73年に「第1回国際コンピュータアート展」の開催に携わるなど、早くからコンピューターの可能性に着目していました。83年に株式会社ナムコからの寄付を得て国産パソコン「NEC9800シリーズ」を多数購入し、本学の情報化にいち早く着手しました。89年には上野毛の美術学部二部開設時にアップルジャパン社との4年間の産学共同研究を締結し、当時最先端の「Macintosh II」を30台導入。日本の大学での本格的なMac教育の先駆けとなりました。髙橋教授もインターネット草創期に自らのWebサイトを立ち上げ、作品や研究発表など活発な情報発信に活用する中で、情報技術の発展によりこれからの社会や美術を取り巻く環境が大きく変わることを見越し、本学の情報インフラ整備にも取り組みました。文芸部の同人「群鳥」に参加する髙橋教授(写真中央)左は菅木志雄、右は幸村真佐男銀座ソニービル「エレクトロマジカ展」造形作家としてデビューミシンで気膜を縫製する髙橋教授年譜編纂協力:莇貴彦立体デザイン時代13TAMABINEWS世界を自分の目で確かめる学生時代に造形作家デビュー世に先駆けて大学の情報化を推進常に多摩美のことを考え、発展のために尽くす大学院生、25歳で本学評議員に選出 196019701980

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