入試ガイド2021|多摩美術大学
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日本画油画版画彫刻工芸グラフィックプロダクトテキスタイル環境メディア芸術情報芸術統合演劇舞踊劇場美術昨年の十月、森美術館で行われたバスキア展に行った。バスキアの絵画を観て、驚いたことがあった。それは、色のかすれだった。それまで、美術館で観たことがある絵画はどれもきれいに色が塗られていて、まるで実際にそこにあるかのような、写実的な絵画がほとんどだった。しかし、バスキアの絵画はそれとは対照的で、勢いよくアクリル絵の具が塗られた痕跡や、アクリルが飛び散っている様子などがいたるところに見られた。画面上に残っている筆跡を観た時、私は目の前にある絵画だけではなく、バスキアという一人の人間の存在も感じることができた気がする。アクリルのかすれは、バスキアがキャンバスの目の前で筆を本当に操っていたということを、生々しく私に感じさせた。バスキアの絵画に惹きつけられたのは、筆跡を通して感じた彼の存在だった。最近触れた芸術作品は伊藤若冲の画集である。私はあの生々しさに魅せられてしまった。ニワトリの絵には力強いはばたきを、犬の絵には愛らしさを感じたが、とりわけ強く魅せられたのは花と虫の絵である。花はただ美しい訳ではなく、虫が葉を食った跡が描かれている。その一種不要な要素が、絵の具を幾層にも重ねた花とのギャップが、私に生々しく生を感じさせた。野菜の絵巻物も同様で、虫が食ったカボチャは、私にはおいしそうだと感じられた。虫の絵は単独で描かれている訳ではなく、一幅の絵に何匹もの異なった種の昆虫が描かれているのだが、一瞬では全てを見つけられない。もちろん蝶のように堂々と舞っている虫もいるが、茎や葉に模倣している虫もいる。一瞬では見切れないが、全て主役なのだ。彼の作品の立体感と生々しさは美しいと私は思う。われ、ものを見ることができなくなる。そこには何があるのか、何もないのか。暗闇はどこまで続いているのか。私に見ることはできない。この時、世界のあらゆる境界はあいまいになり、私はどこまでも自分自身を、そして世界を感じることができる。うな気がする。部屋の広さやベッドの大きさは頭では理解しているはずなのに、視界には闇が飛び込むばかりで、見ることができない。ふと、私は自分が何色をしているのか見てみたくなった。私はまぶたを閉じ自分の中に深くもぐりこむ。するとまっ暗なはずの世界からまぶたの内にだんだんと色が現れ始めた。それは白くて、黄色くて、赤くて、よく分からない。私は自分の身体の色を感じた。私が興奮すると、色は動いたり点滅したりした。私は確かに生きていて、ここに存在する。もっと深いところの色を見たくなってさらにもぐりこみ、私は自分と世界の境界を探した。しかしどこまでいってもそこには自分がいて、世界があった。この時、私は世界と溶け合い、新たな色や自身の形を生み出していたのだ。にはないはずのものを現す不思議な力がある。「見る」という能力が機能しなくなる代わりに、感じたいものをどこまでも感じることができる。私にとって夜とは、あらゆる境界を取りはらい、考えをめぐらし、自分自身の身体で世界を感じられる時間帯である。夜というものは底知れない。闇につつまれ光が失夜、ベッドに入ると私はものすごい空間にいるよ夜には、普段そこにあるはずのものを消し、そこ一般選抜■■■教員コメントまず伊藤若冲の画集を選んだという点がとてもユニークでした。さらに、なぜ若冲の画が素晴らしいと思えたのか、対象を絞り込み、しかも具体的に、花では虫が食べた跡が印象的であったこと、虫では異なった種が同時に描かれていることと独創的な視点から論じられていることが高く評価できます。教員コメント「夜というものは底知れない。闇につつまれ光が失われ、ものを見ることができなくなる」という冒頭から、夜というあらゆる境界を無化してしまう体験を自身に固有の語彙を用いて言語化していく力が大変優れています。「見る」ことだけに特化されない諸感覚を身体で感じるという結論も突出しています。教員コメント多くの回答者がどうしても評価の定まった作家たちの著名な作品を論じている中で、実際に美術館に行った体験をもとに、バスキアという新しい作家を対象として選んでいる点、なおかつ、その画面を見ることによって表現にどのような特色があるのかを独自の観点から抽出している点が優れています。      芸術《一般選抜》小論文[問題1]小論文[問題2]

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