入試問題集2022|多摩美術大学
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芸術家になるには、まず「うつす」ことから始める。デッサンで形を「写す」、参考のために写真を「映す」こともあるかもしれない。師とあおぐ人の作品を「写す」こともあろう。ひたすらこのくり返しを続けることによって、もう参考となるものが目の前に存在しなくても、「心に映す」ことができるようになれば、もうしめたものだ。「うつす」ことを放棄することが、独立した芸術家の出発点となる。ドイツの哲学者ヘーゲルの弁証法哲学では、モノの見方は多面的でなければならないと説く。Aさんは花を見て美しいという。Bさんは逆に醜いという。Bさんの頭には、枯れた花が思い浮んだからだ。当然どちらも間違いではない。モノや考え方とは否定も含めて、その総体だと考えるからだ。ヘーゲルはさらにその先を行く。枯れた花は種を生む。その種がまた花を咲かせる。このサイクル全体を「花」ととらえるのが最も実体に近いからだ。芸術家もきっと同じだろう。ただ「うつす」だけではうつす対象を肯定的にとらえすぎている可能性がある。師の場合ならなおさらだ。師を否定的にとらえる弟子はあまりいないだろう。ヘーゲルに従うなら、師を肯定することはもちろん重要だ。だが芸術家ならあえて師を否定して、見つめ直すことも必要になる。否定の先に、新たな「種」を見つけるのだ。そうすれば新しい才能の芽が出て、大輪の花を咲かせる日が来るかもしれない。その時が来れば、あなたは「うつされる」側になっているだろう。そして弟子に否定されることもあるだろう。すべてのモノと考え方は、このサイクルで成り立っているのだ。しかし、こんなことでめげていてはいけない。あなたの影響力のウイルスを世界中に「うつす」ことが芸術家としてのあなたの使命なのだから。うつす、という言葉。同じ音を持っていても、映す、写す、移す…など、その意味は一つには絞れない。「うつす」ということについて、一つ一つ考えていこう。たとえば、「映す」。ここから連想されるのは、映写機だ。この世界の中で動いているもの、あるいはただ存在しているもの、それらをフィルムに焼きつける。一度起こったことが映像という形で記録され、繰り返し見返すことができるようになる。あるいは、「写す」。連想されるのはやはり写真だろうか。真を写す、と書いて写真。こちらはこの世の一瞬を切り取り、画像である写真という形で残す。こうして考えると映像と画像は動くか否かという大きな違いがあるとはいえ、その根本は放っておけば流れ過ぎ去り消えていくものごとに形を与え後の世に残すというところで同じものであるとみなせそうだ。最後に「移す」。これは一見して前述した二者とは距離があるように感じられる。連想できるのは「移動させる」という行為であろうか。しかしこれは関係のない事柄だ、と決めつけるのは早計である。映像は現象を動画という形の中に「移し」、写真は画像という形の中に「移し」たものであるという見方はできないだろうか。単なる物質の移動の他に、その形態を変えるといった意味合いが見えてきた。うつす、という言葉。例に挙げた三つは、そのほんの一部分にスポットを当てたにすぎないだろう。しかしここから見えてきたのは、こと芸術や作品において制作者をはじめとした一人の人間が見ているその世界を他者とも共有する、あるいはいつかどこかに届けるために後世に残す、といった、いわばこの世界の一部を切り取る作業という面である。この世界にあるものは時とともにうつろい、やがて消えていく。それをうつすことで、わずかでもその寿命を延ばそうとする人間のあがき。それが「うつす」ということだと考える。       80[教員コメント]「うつす」のいくつかの意味を一人の芸術家の成長の過程に当てはめて考えている点が、とても面白いです。さらに、ヘーゲルの弁証法をそこに絡めて考察を深化・発展させている点が素晴らしいです。そうして、「うつす」ということをめぐる芸術家たちの存在の連鎖について、優れた考察をなしています。[教員コメント]「映す」(映像)や「写す」(写真)ということはともに「残す」ということではないかという見解は、とても鋭く興味深いです。さらにそこに「移す」という問題を加えて、考察を立体的にしている点は秀逸です。短い時間で深く考え、独自の思考を展開し、それを分かりやすい良い文章で表現できています。問題2 | 「うつす」ということについて、800字以内で論じなさい。小論文

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