芸術の一部である表現の力を使うことで、記憶を鑑賞者にイメージさせることができると私は考える。このように考えた契機としてリアス・アーク美術館で行われている「東日本大震災の記録と津波の災害史」という常設展示を挙げたい。この展覧会では災害の写真や資料だけでなく、三陸地域における津波被害の資料を展示している。そしてこれらを単なる資料物として展示するのではなく、この震災をどう活かす、どう表現するかをテーマにしている。この展覧会は鑑賞者に震災をリアルにイメージさせる契機になった。震災という忘れてはならない感覚を芸術の表現する力で鑑賞者に伝えたのだ。たしかに単に資料を展示するだけでも、震災の記憶を鑑賞者にイメージさせることはできる。多くの美術館や博物館は資料を収集し、展示している。しかしこのリアス・アーク美術館は、資料の横に被害者の声を集めて作成したハガキを置いた。美術館のルールとしてアーティスト以外が何かを作って展示することは異例である。だがリアス・アーク美術館はこの工夫を施して、鑑賞者に震災の記憶をイメージさせたのだ。震災は忘れてはならないもの、伝えていかなければならないものである。芸術で表現するからこそ、人々は身近に震災の記憶をイメージすることができるのだ。そしてリアス・アーク美術館はこのように機能したのである。したがって芸術の表現する力は、記憶を鑑賞者にイメージさせることができると私は考える。忘れてはならない過去や伝えるべき歴史も芸術の力を使うことで表現できる。美術館や博物館は記憶を表現するものとしても活動できるはずだ。イメージと記憶はどちらも「経験」が関わっている。まずイメージは、今まで蓄積してきた「経験」から頭で構想をたてる。そして記憶は、今までの「経験」を頭に留めることだ。どちらもそれまでの経験が元となるのであるが、それを頭に取り入れてからの行き先が異なる。イメージは経験を元に、新たに自分の発想しているものが加わり、自分のものとして発信される。つまり、イメージは内部(自分)から取り出したもので、逆に記憶は外部から取り入れたものである。この双方向の関係は、世界中の至る所で行われているが、芸術的な活動が行われている場では、より顕著になる。 例えば、『ピータールー序曲』という曲は実際に起きた事件が元になっている。ある国の公園で行われていた演説中に、警察が大勢の聴衆をとらえ、それに反抗する聴衆が大暴動を起こす、という事件だ。作者はこの事件を元に、音にして表していった。曲中では不協和音と、噛み合わない二つのリズムが多用され、まさにこの事件を連想させるものである。ここまでの流れは、作者によるイメージで、事件を元に自分の発想を加え、音として発信された。そして作者のイメージを聴いた人は、この音楽を経験として取り入れ、記憶として頭の中に留めていく。また、この曲を聴いた人は何かを考える時、作り出す時、発信する時、この曲を聴いたという経験が元になって、イメージする時の材料となる。つまり、イメージするためには経験を積み、多くの記憶があることで、いわゆる多角的な視点でイメージすることができる。イメージと記憶は食物連鎖のようで、その鎖の円の中に割って介入することができない。イメージしたものを発信し、それを記憶する人がいて、そしてその記憶を元にイメージし、発信して、というようにつながっている。イメージは他者にとって経験として記憶されていくのだ。 82小論文[教員コメント]「イメージと記憶」という出題に対して、ごく一般的な個人の問題として答えるのではなく、「震災」を主題とした、きわめて個性的な美術館の展示を、作品や資料以外に寄せられた罹災者の「声」とともに考察している点に大きな独創性がある。今後、アーティストやキュレイターが取り組まなければならない課題が浮き彫りにされている。[教員コメント]「イメージ」というとどうしても絵画や写真の問題として捉えてしまいがちであるが、なによりも「音」(音楽)による「記憶」の再構築という視点から考察している点が、大変優れている。しかも、その「音」による事件の再構築は、実際に起こった事件をもとにした作品でもある。オリジナリティに富んだ、一つの芸術論となっている。問題2 | イメージと記憶について、800字以内で自由に論じなさい。
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