tonATELIER_Vol.02
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のわたしが見てきたものとはまったく真逆にあるもの」。それなのに、心の奥深くに居座った。彫刻が、彼女のなかに“ただ、ある”ようになった。 「女子大の2年生のときに美大に行きたいと思うようになって、高校生と一緒に予備校に通いました。いくつかの美大の編入試験とかを受けましたが、見事に落ちて、それでも作品づくりは続けていたんです。で、やっぱり彫刻をやりたくて、美大の作品審査を受けて、多摩美には研究生から大学院までの3年間お世話になりました」 念願の美大に入り、研究生となった彼女を驚かせ、かつ喜ばせたのはその制作環境だった。 「何しろ女子大の頃は、廊下で制作グラフィックデザインやテキスタイルデザインや絵画をやっている同世代の人が同じ場で勉強しているって、いいですよね。学内の展覧会を自分たちで企画したり、制作につまずいたり悩んだときにほんと助けてもらいました。今も同じ世代のプロとして交流しています」 彼女の作風が激変するのは、美大術学科の研究者に美術の歴史とかいろんな作家のこととかよく聞きに行ってました。実はわたし、現代アートって岡本太郎くらいしか知らなかったんです。志穂という名前の“穂”というのは、稲穂じゃなくて穂高岳の穂なんです。名付けたのは山が好きな父親で、自宅の壁にフリークライミングのグリップを取り付けて、特訓させられていたほどです。子供の頃、山によく登ったせいかな。それで目の前の不要となった物から遠い場所を見る。スケールの感覚。今のフィールドワークにつながっているのかもしれません。している人がいたり、粘土を取るのも階段を昇り降りしたりしなくちゃならなかったのに、多摩美の彫刻のアトリエにはレオナルド2型という粘土練り機まであるんです。なんて素晴らしいんだろうってテンション上がりました。他のみんなには当然のことが、わたしには当然ではなかったので、ルールというか制作場での常識を知らなすぎて、大きすぎるものを作ったり、やっちゃいけないことしたり、よく怒られましたね」 そんな美大の環境のなかで彼女が今も良かったと思うのは、 「学校のなかに美術のプロフェッショナルがそこらじゅうにいるということです。普通のところは美術をする人はおろか美術を観る人だって珍しいのに。芸影響を受けたモノ・コト「標高2700m周辺が好き」仮に歌手になったとしても彫刻家として唄を歌う

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