tonATELIER_Vol.02
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Graduates' message テキスタイルは、日本では染織と呼ばれている。染と織の文字が表すように、その領域は実に幅広く、糸そのものや織り方を選択することから色、模様、図柄、質感の決定にまで及ぶ。だからファッションやインテリアの市場におけるトレンドは、テキスタイルデザインによって方向づけられると言っても過言ではない。テキスタイルデザインは、それほど重要な役割りを担っている。 「ヨーロッパでは、テキスタイルデザイナーはファッションデザイナーと同じように誰もが知っているポピュラーな職業なんです」と梶原加奈子は言った。しかし、 「日本ではまだまだ認知されているとは言えないかも。例えばイタリアの工場に行くとテキスタイルデザイナーが世界の動向を見ながら生地のクリエイティブディレクションをしていますけど、日本ではそのポジションが明確にないですよね」 テキスタイルデザインという分野は、ファッションデザイナーの指示のもとに動いている製造の流れや、大量生産を求める日本の産業構造のなかでは地位を確立しづらかったという。 「受身の時代は過ぎました。今の日本のテキスタイルメーカーは、社会の流れや求められるものを予測したうえで、素材を自らが開発し提案しなくてはいけなくなっています。そこにテキスタイルデザイナーの必要性を感じます」 そんな彼女がテキスタイルデザインを知ったのは美術予備校に通っていたときのこと。絵を描くことが好きだったから通い始めた予備校の先生に「染織デザインに向いている」と言われたのがきっかけだった。 「色が好きだったんです。その頃は染織なんて全然知らなくて、大学案内を見たり本で調べたり。ファインアートを志す気持ちもありましたが、わたしは直接社会と繋がっている仕事をしたいと思っていたんです。それには染織がいいかなと」 しかし美大への進学に両親は反対だった。予備校の授業料や受験のための旅費や受験料などを自分で工面し、2浪の末に多摩美に。念願の合格を果たすと、すぐに彼女は気持ちを新たにしたという。 「受験で疲れているとき、合格はゴールじゃなくスタートだ、と予備校の先生に言われたんです。だからまず就職先を調べました。その頃ISSEY MIYAKEから、新鮮で素晴らしいテキスタイルが発表されていて、心が動かされました。この会社で仕事がしたいと思ったんです。入社試験の面接のときに自分の気持ちを伝えられるように、4年間のポートフォリオを提出することをイメージして、課題を頑張るぞと思いました」 そして見事にあこがれのISSEY MIYAKEに入社した。仕事は刺激にあふれ、充実した3年の月日が過ぎた頃、彼女に大きな転機が訪れる。海外での仕事を経験している先輩や恩師に幾度も繰り返し勧められていた英国ロイヤル・カレッジ・オブ・アート(RCA)への留学だった。 「素晴らしい職場環境でしたから本当に迷いました。でも、知らない世界があるのなら20代のうちに経験したいという気持ちが大きかった」 梶原加奈子はRCAへの留学を決意した。しかしRCAの詳しいことまではムービング・テキスタイルがコンセプトというグリデカナのロゴ(写真上)。多くの産地に協力を仰ぎ、廃棄される運命にあった生地を集めて一枚のテキスタイルに縫い上げた『ALL FOR ONE BAG』(写真下)、素材から優しい温もりが伝わってくる。よく知らなかった。しかも英語はまったくダメ。そこで彼女はいきなりRCAを訪問した。 「自分の人生をかけていますから、いろいろ確認したかったんです。教授はどういう人?わたしの作品をどう思う?って。担当になる先生は、作品からわたしの特徴を捉え、今後の授業方針を教えてくれました。そして、まずは1年間英語を学びなさいって」デザインするときの、自分のなかに 緑や空や水があって、光や色が 刻々と変化していく、その瞬間。

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