沿革

1935年

多摩帝国美術学校を現在の東京都世田谷区上野毛に創設する。校長・杉浦非水、名誉校長・北昤吉、主任・中村岳陵(日本画)、牧野虎雄(西洋画)、吉田三郎(彫刻)、杉浦非水(図案)、学生数67名。今井兼次教授設計の校舎が完成する。

写真=紋章レリーフ
創立当時の西洋画棟壁面に取りつけられた紋章レリーフ
写真=杉浦非水
杉浦非水 多摩帝国美術学校校長(1935~47年)
1936年

図案科会機関誌『デセグノ』創刊。女子部を設置する。

写真=デセグノ創刊号
デセグノ創刊号 多摩帝国美術学校図案科会出版
1939年

学友会誌『多摩美術』創刊。

1944年

『多摩美術』学徒出陣記念特集号を刊行。全教員、全学生の作品写真を掲載。

1945年

戦災により図案科棟を残し校舎焼失する。

1946年

川崎市溝口の仮校舎にて授業を再開。

1947年

専門学校認可、多摩造形芸術専門学校(美術部・建築部・工芸部)となる。理事長・杉浦非水、校長・井上忻治。

1948年

中学・高等女学校教員無試験検定出願資格認可校となる。

1950年

多摩美術短期大学(絵画科・彫刻科・造形図案科)を設置。学長・井上忻治。上野毛校舎にて全面授業再開。

1953年

多摩美術大学(絵画科・彫刻科・図案科)を設置。理事長・杉浦非水、学長・井上忻治、美術学部長・逸見梅栄。

写真=井上忻治
井上忻治 多摩美術大学初代学長(1953~68年)
1954年

溝口に多摩芸術学園を設置(映画科・演劇科)。逸見梅栄が学園長に就任。教育職員免許状授与所要資格認可。『美術大学新聞』(学生新聞部)創刊。

1957年

多摩芸術学園に写真科を新設。

1958年

上野毛講堂が完成。

1960年

上野毛本館が完成。

1961年

村田晴彦が理事長に就任。

1962年

上野毛1号館完成。溝口学生寮完成。

1964年

大学院美術研究科(修士課程)設置。附属図書館完成。

1965年

奈良古美術セミナーハウス(飛鳥寮)完成。

1966年

後藤狷士が多摩芸術学園学園長に就任。上野毛2号館完成。富士山麓セミナーハウス(純林苑)完成。

1967年

松葉良が多摩芸術学園学園長に就任。

1968年

石田英一郎が学長に就任、総合美術大学構想を発表。多摩芸術学園新校舎完成。石田英一郎学長没。福沢一郎教授、学長事務取扱に就任。

写真=石田英一郎
石田英一郎 第2代学長(1968年4~11月)
1969年

芸術学科と建築科の設置が認可される。
学園紛争により全学封鎖。八王子校地に本館、学生寮が完成。

1970年

真下信一が学長に就任。

写真=真下信一
真下信一 第3代学長(1970~75年)
1971年

美術学部の八王子校舎移転開始。建築科開講。

1972年

八王子キャンパスに学生会館、体育館が完成、以降実習校舎11棟が順次完成する。

1974年

八王子に図書館、美術参考資料館完成。

1975年

内藤頼博が理事長・学長代行に就任。村田晴彦が会長に就任。

1976年

創立40周年記念式典を開催。

1979年

内藤頼博が学長に就任。多摩芸術学園25周年記念式典を開催。

写真=内藤頼博
内藤頼博 第4代学長(1979~87年)
1981年

芸術学科開講。八王子校舎1号館完成(現絵画東棟)。アートセンター・カレッジ・オブ・デザイン(米国)との交流始まる。

1982年

附属美術参考資料館が博物館相当施設の指定を受ける。
学芸員資格認定指定校となる。シラパコーン大学(タイ)と国際交流協定を締結。

1983年

『多摩美術大学研究紀要』創刊。

1985年

八王子キャンパス2号館完成。

1986年

創立50周年記念式典を開催。『多摩美術大学50年史』を刊行。

1987年

後藤狷士が学長に就任。創立50周年記念事業「もの派とポストもの派の展開」展(西武美術館)を開催。

写真=後藤狷士
後藤狷士 第5代学長(1987~99年)
1989年

美術学部二部(絵画学科・デザイン学科・芸術学科)を上野毛キャンパスに設置。上野毛3号館完成。

1991年

藤谷宣人が理事長に就任。中央工芸美術学院(中国)と国際交流協定。

1992年

美術学部絵画科版画専攻開設。多摩美術大学広報誌『たまびNEWS』創刊。

写真=多摩美術大学広報『たまびNEWS』創刊号
多摩美術大学広報『たまびNEWS』創刊号
1994年

八王子キャンパス整備計画を決定。美術参考資料館を附属美術館と改称。

1995年

創立60周年記念事業「広告デザインの誕生から現代まで」展(日本橋三越本店)を開催。大学シンボルマークを制定。多摩美術大学校友会を設立する。大学院を昼夜開講制とする。「第1回東京国際ミニプリント・トリエンナーレ展」(多摩美術大学美術館)開催。

1996年

弘益大学校(韓国)、東亜大学校(韓国)と国際交流協定を結ぶ。「1953年ライトアップ」展(目黒区美術館)を開催。

1997年

八王子キャンパスに絵画北棟、学生クラブ棟が完成。

1998年

情報デザイン学科を設置。改組転換により工芸学科、生産デザイン学科、環境デザイン学科を設置。同じくグラフィックデザイン学科、絵画学科、彫刻学科へ改称。芸術学専攻修士課程を設置。デザイン棟、彫刻棟、工芸棟が完成する。

1999年

辻惟雄が学長に就任。テキスタイル棟、TAUホール、グリーンホール完成。造形表現学部(造形学科・デザイン学科・映像演劇学科)を上野毛キャンパスに設置。美術学部二部の募集を停止する。

写真=辻惟雄
辻惟雄 第6代学長(1999~2003年)
2000年

美術学部情報デザイン学科と芸術学科にてセンター試験利用入学試験を実施。多摩美術大学美術館を多摩センターに開館。生涯学習プログラムを開始。八王子キャンパス前期工事竣工式典開催。ヘルシンキ美術大学(現アアルト大学、フィンランド)と国際交流協定。

2001年

大学院美術研究科博士後期課程美術専攻設置。美術学部、造形表現学部で3年次編入学試験実施。メディアセンター開館。清華大学美術学院(北京)と国際交流協定。

2002年

美術学部グラフィックデザイン学科、生産デザイン学科、環境デザイン学科でセンター試験利用入学試験実施。生涯学習センター設置。「日韓中教授作品交流展」開催。レクチャーホール、本部棟の建設着工。

2003年

髙橋史郎が学長に就任。「現代の東南アジア美術─それぞれの視点」展(多摩美術大学美術館)開催。

写真=高橋史郎
高橋史郎 第7代学長(2003~07年)
2004年

八王子キャンパス工事竣工披露記念式典を開催。レクチャーホール、本部棟が完成。正門周辺整備工事完了、開通式開催。美術学部工芸学科自己推薦入学試験、環境デザイン学科キャリア入学試験、造形表現学部映像演劇学科自己推薦入学試験を実施。

2005年

創立70周年記念事業「ホームカミングデイ2005」を行う。中央美術学院(中国)と国際交流協定。

2006年

芸術人類学研究所を設置。アートセンター・カレッジ・オブ・デザインとの共同研究「Pacific Rim」を開始。

2007年

清田義英が学長に就任。新図書館、情報デザイン棟・芸術学棟、第2工作センター、東門および駐輪場が完成。美術学部彫刻学科自己推薦入学試験を実施。

写真=清田義英
清田義英 第8代学長(2007~11年)
2008年

美術学部絵画学科、彫刻学科、工芸学科でセンター試験利用入学試験実施。「大学院教育改革支援プログラム異文化相互批評が可能にする高度人材育成」〈CO-CORE〉国際講評会を開催(北京、ヘルシンキ、東京)。バナナ・テキスタイル・プロジェクトがルワンダ共和国、ウガンダ共和国を訪問。ベルリン芸術大学(ドイツ)と国際交流協定。

2010年

卒業生の発表活動支援のためのオルタナティブ・スペース「アキバタマビ21」(3331 Arts Chiyoda内)を設置。

2011年

五十嵐威暢が学長に就任。マルメ大学(スウェーデン)と国際協定を結ぶ。

写真=五十嵐威暢
五十嵐威暢 第9代学長(2011~15年)
2012年

大学院美術研究科博士前期課程(修士課程)芸術学専攻に身体表現研究領域を設置。国立台北芸術大学、ヘリット・リートフェルト・アカデミー(オランダ)、国立台湾芸術大学、ナショナル・インスティチュート・オブ・デザイン(インド)、ロイヤル・カレッジ・オブ・アート(英国)と国際協定を結ぶ。

2013年

ソウル大学美術学部(韓国)、梨花女子大学校造形芸術大学(韓国)、オスロ国立芸術大学(ノルウェー)、グラスゴー美術学校(英国)と国際協定を結ぶ。

2014年

美術学部統合デザイン学科、美術学部演劇舞踊デザイン学科を上野毛キャンパスに設置。造形表現学部(夜間)の学生募集を停止する。上野毛キャンパスに演劇舞踊スタジオが完成。ヨーテボリ大学(スウェーデン)と国際協定を結ぶ。

2015年

建畠晢が学長に就任。アートテークが完成。奈良古美術セミナーハウスの建て替え工事完成。創立80周年記念式典を開催。絵画学科版画専攻で自己推薦入学試験を実施。シンシナティ大学(米国)と国際協定を結ぶ。

写真=建畠晢
建畠晢 第10代学長(2015~23年)
2016年

富士山麓セミナーハウスの建て替え工事完成。美術学部全学科で推薦入学試験を実施。国立高等装飾美術学校(フランス)、ロンドン芸術大学チェルシー・カレッジ・オブ・アーツ(英国)、ロードアイランド・スクール・オブ・デザイン(米国)と国際協定を結ぶ。

2018年

大学院美術研究科博士前期課程(修士課程)にデザイン専攻統合デザイン領域、演劇舞踊専攻を設置。アートアーカイヴセンター設置。ローザンヌ美術大学(スイス)とウィーン応用美術大学(オーストリア)と国際協定を結ぶ。

2019年

青柳正規が理事長に就任。

2020年

「デザイン経営」の社会実装を目的にビジネスパーソン向け講座「TCL -多摩美術大学クリエイティブリーダーシッププログラム」を開講。

2021年

大学直営学生寮「多摩美オリーブ館」を八王子キャンパス隣接地に設置。「多摩美術大学 TUB」(東京ミッドタウン・デザインハブ内)を設置。

2022年

キャンパス内に画材店「世界堂」がオープン。

2023年

内藤廣が学長に就任。

シンボルマーク

精神の表象

シンボルマークは、アイデンティティの視覚的表現である。多摩美術大学は創立以来、建学の精神と教旨を内外に伝えるため様々な標章を制定してきた。

シンボルマークの由来

創立60周年の1995年、伝統の継承と新たな目標に向けての創造的な意志を顕在化するUI(ユニバーシティ・アイデンティティ)計画が実施され、コンセプト・シンボルマーク・ロゴタイプ・スクールカラーを決定した。コンセプトは『自由と意力』である。自由とは『本校創立ノ趣旨』の中にある。「―美術ハ自由ナル精神ノ所産ナルコトヲ想フ時、我ガ美術教育界ノ缺陥ハ直ニコレヲ匡正スベキモノナリ―」に依拠し、本学のなかに連綿と流れている校風である。意力は、杉浦非水の『圖案生活三十年の回顧』の「―多摩帝國美術學校関係者の溌剌たる意氣を以て、私のこの意力を後世へ繼承する約束については誰一人として異存を稱へるものは無いであらうことを私は私の誇りとして信じ―」の一文からである。意力は、本学に託された遺言なのである。

シンボルマークは、杉浦非水の羊の頭をシンボライズした校章『美』の原型を変容させている。上下二本のラインが『自由』と『意力』で、五十嵐威暢がデザインしたものである。

この1995年に制定されたコンセプト・シンボルマーク・ロゴデザインは、今後も常に我が国の芸術教育を牽引し続けようとする多摩美術大学の強い意志の表象である。学生、教職員、そして本学に連なる多くの人たちの精神の拠り所となり、誇りの支柱となって愛されることを希求するものである。

シンボルマークの沿革

1935年、設立時の校章は、図案科主任教授であった杉浦非水によるデザインである。同年10月末に完成した校舎の門扉は、青・緑・黄・赤のカラーサインが施され、日本画科を青、西洋画科緑、彫刻科黄、図案科(染織、建築を含む)を赤に区分されていた。西洋画実習棟の壁面には、建築家今井兼次教授の下絵による紋章のレリーフが取り付けられていた。このレリーフは多摩帝国美術学校の頭文字TTBと絵画芸術のシンボルである絵筆が交差し、上部には『芸術愛』を象徴するアカンサスが戴冠されている。

その後、新たなシンボルマークと校旗のデザインが杉浦非水の手によって考案された。シンボルマークは飛躍を意味する羽とUTAのロゴデザイン。校旗は日本画科にグリーン系、彫刻科イエロー系、図案科レッド系、西洋画科にブルー系があてられている。しかしこのプランは実現化しなかった。

4年制大学になった1953年には、杉浦非水デザインの『美』を基調にした校章が制定され、再建なった新校舎の正門に個性豊かなロゴタイプのレリーフが設置された。これは現在もそのままの姿で残っている


  • 創立当時の校門写真、左より青(日本画)、黄(彫刻)、緑(西洋画)と色分けが施されていた

  • 創立当時の西洋画棟壁面に取りつけられた紋章レリーフ

  • 多摩帝国美術学校校章(杉浦非水デザイン)

校歌

多摩美術大学校歌

視聴する(MP3 3.4MB)

「多摩美術大学校歌に寄せて」 元多摩芸術学園学園長 松葉 良(故人)

多摩美術大学校歌は多摩美術大学が25周年を迎えた時、元理事長故村田晴彦先生の発案により当時学園の佐々木事務部長が事務的な労を取り作られたものです。作詩はその当時の現代詩人協会の会長でありNHKの監査室に居られた黒田三郎氏にお願いし作曲は私にということで決定したのです。また黒田三郎氏と共に多摩美大の付近と二子玉川を歩き回ったことも懐かしく思いだされます。作曲は長調と短調の2曲を完成し、その当時の美大の学生諸君に歌唱して戴き、録音にとり、それを上野毛の校庭に流し、全学の学生のアンケートを取り長調の作品に決定致しました。そして25周年の式典では、その当時のデザイン科の学生で後に学園で教えておられた石黒正範氏が四声コーラスの指揮をとり盛大に初演致しました。またその当時美大のマンドリン合奏団は、その当時美大の油科の学生で後に学園の絵画科を指導された渡辺允康氏が指揮をして常に演奏されていたようです。しかしその後学園紛争の時代、美大並びに学園に保存してあった原譜は全て失われてしまいました。それ以後歌われることは殆どなくなってしまたのです。現在原曲の楽譜に岡本仁氏が手を入れたものがコーラス部に残されていることを知りました。最近再び歌われるようになり始めたことは作曲者にとって非常に喜ばしいことと存じます。

『多摩美術大学50年史』(1986年刊)より抜粋

多摩帝国美術学校時代の校歌(『多摩美術大学50年史』(1986年刊)より抜粋)

多摩帝国美術学校校歌