Funny chase
渡部 真衣
作者によるコメント
人の顔は見る者によって異なる印象を持たれるため多面性に開かれていると言い換える事ができますが、顔そのものは一つです。
展示という場において鑑賞者が作品を「見る」という行為も、作者が作品を「見せ」鑑賞者に内容を共有することもどちらも一方的なので、双方が対等な(少なくとも一方的でない)関係に近づきます。
しかし顔の元イメージは見られることを拒否して逃げ回り、鑑賞者がイメージを受け取ろうとすることを拒みます。
「見る」という行為に暴力性が隠れているように、贈与の場における主体と客体の非対称性は日常の中に溢れているにも関わらず隠蔽されています。
しかし顔を見るために作品を追いかけるという行為を作品に要請された時、見る側もまた そのことを意識せざるを得ないかもしれません。
担当教員によるコメント
まるでチベット仏教の砂絵のように、粗い粒子の岩絵具で描かれた女性の顔は、膠等で定着されてはいない。作品の上を縦横無尽に走り回るキャタピラのおもちゃ。そのおもちゃが画面上の砂絵の上を走り回っている。結果として、砂絵は次第にかき消され、その女性の顔はいつしか跡形もなく消え去ってしまっていた。
作者は「見る」という行為には暴力性が隠れていると言い、「見る」「見せる」という行為に対し、率直に感じ取り、思索し、表現し、その意味を提示してくれた。鑑賞者である私たちにとって、それは日常的に行われていることではあるのだが、それは常に見過ごされ、気が付かれないまま放置されてきた。
私は、キャタピラのおもちゃの動きを追いかけながら、作品表現という行為の残酷な一断面を突きつけられたような気がした。いや、現代社会の中で、私たちがいつも味わっている苦しみ。真剣に何かに向き合う者は、どこかで必ず深刻な痛みを味わうものなのかも知れない。
教授・岡村 桂三郎
- 作品名Funny chase
- 作家名渡部 真衣
- 素材・技法ミクストメディア
- サイズ600×1810×1810mm
- 学科・専攻・コース
- カテゴリー
- 担当教員