初期の時代----技術・ヴィジョン・利用者たち 1839-1875
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イポリット・バイヤール
トローゼ通りの堀削り工事(図24)
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イポリット・バイヤール
溺死者としての自写像(図25)

紙写真術の他の展開

実際にはフランスでも、紙を用いる写真術は別個に見出されていた。大蔵省の役人だったイポリット・バヤールが1839年初め、フォトジェニック・ドローインクとカメラで露光して得た直接陽画とを展示公開している(写真技術小虫PartIを参照)。その中にはパリ市内に飛び地として残されていた田舎風の区域が都市化に見舞われはじめている光景(図24)などが含まれていた。これらはタルボットの技法に関する最初の報告がフランスに届いた直後、ダゲールの技法内容が正式に公表された8月より以前に制作されたのである。ところが、特にダゲレオタイプを推進する立場にいたアラゴーによって政治的な圧力がかけられ、彼の発見は公衆から遠ざけられてしまう。フランスの権力側によるこのような卑劣な措置15)に対して憤りを表明しようと、バヤールは自らを自死による犠牲者に擬するイメージを制作している(図25)。とはいえ、まもなく彼はパリ写真界の中でも傑出した写真家の一人となっていくのである。 バヤールの発見を知り、このもうひとつの紙による技法が大陸で優位に立つかもしれないと危倶したタルボットは、フランスでもカロタイプを広めようとした。そのためジョゼフ・ユーグ・マレ(バッサーノ侯爵として知られていた)とのあいだにプロモーションを委託する契約をかわし、また1843年のパリ旅行中に技法使用のデモンストレーションを行った。だが、フランス側の提携者が無能であり、このプロジェクトそのものが全く失敗だったことが判明してくる。フランスのアーティストたちは、イギリスのタルボットから直接に権利を購入するのを嫌って、1847年まで待機の構えていることを選んだのである。この年にはリールの写真家で書籍出版に大きな影響を及ぼす存在となるルイ・デジレ・フランカールニエヴラールが、タルボットの発見を受継ぎつつ、それに修正を加えた紙による技法を公表することになる。フランスで紙の写真術にもっとも熱心だった第一人者の一人には、画家キュスターヴ・ル・グレイがいた。彼は1851年、露光前の紙ネガに蠣引きすることで画像の明瞭さや調子表現の感度を増す方法を記述している。ル・グレイをはじめとするフランスの写真家たちによって1851年にすすめられた歴史的建造物の記録プロジェクト(第3章を参照)ではカロタイプが使用された。後で述べるコロジオン法によって時代遅れとなるまでのあいだ、カロタイプはフランスの批評家たちからさかんに称揚されている。1839年の初め、バイエルン王立科学アカデミーでタルボ・ットの発見が報告されたのを受けて、ミュンヘンの二人の科学者カール・アウグスト・フォン・シュタインバールとフランツ・フォン・ヨベルは紙ネガを用いる実験を行い、7月にはその成功作例を展示している。しかし、それでもダゲレオタイプが素晴らしい細部描写を可能にすることを聞き及ぶと、シュタインバールは金属板の技法の方へ転じてしまう。アメリカでも、イギリスでと同様、カロタイプの柔らかな画質は主に知的に開かれた少数の人々(ボストン在住者が多い)にアピールするが、全体としては紙写真術への反応は冷めたものだった。ニューヨークで写真材料を供給する商売をいち早く手がけたエドワード・アンソニーとかわしたビジネス上の契約が無益に終わった後、タルボットは特許権をランゲンハイム兄弟に売り払った。彼らはこの技法の使用権をアメリカ中で売却することを目論むのである。ランゲンハイム兄弟が制作したカロタイプは新聞の賞賛するところとなるが、この会社はすぐに倒産を余儀なくされた。アメリカの公衆はダゲレオタイプヘの忠誠を守りつづけたのである。