初期の時代----技術・ヴィジョン・利用者たち 1839-1875

紙印画の展開

輪郭がぼやけがちという点とは別に、もうひとつカロタイプ写真家たちを悩ませていたのはプリントの画質の同題だった。譜調にむらが生じたり、しみが目立ったり、さらにもっと重大な点として、美しい仕.上がりのプリントであっても次第に像が薄れたり、腿色してしまう傾向があることは、特に商業化の企てをもつ人たちにとっては、悪夢に等しかった。さらに塩化銀紙へのプリントネカを感光紙に密着させ、像があらわれるまで露光させてつくり出される陽画一は、たとえ申し分のない出来でも、より優れたコントラストや明瞭さをもつ画像(ダゲレオタイプ)にひきつけられていた大衆には生気に乏しいものと見なされた。これらのことは、印画紙に画像を形成することにつきまとう問題として認識されていた。そこでアルビュメンと銀塩感光物質とからなる乳剤を紙の表面に塗布することで、像が紙の組成と混じり合わなしなうにするやり方が提案されてくる。アルビュメン・プリント(鶏卵紙)は、コロジオン法とほぼ同時期に使用されはじめ、急速に写真技術の中に新しい位置を占めていった。以後30年間、アルビュメン・プリントはシャープな輪郭、光沢ある表面、コントラストの明確さなどを特徴として広く用いられていくのである。この技法が好まれているのを見計らって、フランカール=エヴラールはリールに写真印画工房を開設し心これは多数の男女を雇い入れた写真印画の工場として最初に成功したものであり、まず創業からの2年間で12種類の出版物のためにプリントの制作が行われた。同種の工場はまもなく、アルザス、ドイツ、イギリス、イタリアにも出現し、写真図版を収める本やポートフォリオが一般化していくのである。アルビュメン・プリントの将来性は明るく展望されていたのだが、なおも画像の安定性が保たれるか否かという問題は、大規模な写真印画生産への需要を取りつけていこうとする写真家らの頭を悩ませていた。色腿せて魅力をなくしたアルビュメン・プリントの黄褐色は、しばしばひからびたチーズにたとえられた。また製紙の工程で使用水に(紙のにじみ止めとして)サイズ(陶砂)を混入させることも問題視された。この不純物の残滓が腿色を引き起こす一因と推定されたのである。そのような鉱物成分を混入させずに紙をつくることができるのは、フランス北東部の二つの製紙工場だけだとされていた。これらの工場からの出荷品は船便でドレスデン付近へ運ばれ、アルビュメン処理を施された。ドイツのこの都市はコロジオン法の時代を通じ、印画紙生産の第一の中心地となるのである。個人ごとの研究や、当時のもっとも重要な二つの写真団体であるロンドン写真協会、フランス写真協会の中に組織されたこうした問題についての検討委員会により、像が消えるその他の要因として、水洗不足、ハイポ液での定着処理の不十分さ、台紙貼りに使う接着剤と空気の汚れの相互作用、などが確認されていった。1856年には、著名なフランス人考古学者オノレ・ダルベールことリュイナス公爵が、二つの効能を合わせもつ掘り出し物(重クロム酸塩)に着眼し、写真術をめぐる二つの活動分野に解決策が示された。これにより、まず写真の化学的処理方法に大きな寄与がもたらされ、ついでまた、耐久性に優れた化学的な印画方法が導き出されることになった。リュイナス公爵や他のフランスの産業資本家たちは、写真の複製方法の手わざの部分よりも機械的な側面に目を向けたのである。この掘り出し物の二つの効能いずれをも実用化に結びつけたのは、化学者として高名だったフランス人アルフォンス・ルイ・ポワトヴァンで、彼はコロタイプと呼ばれる写真石版印刷術を完成し(写真技術小虫PartI1参照)、さらに銀塊を使用せずにコロジオン・ネガをプリントするやり方を実現している。この技法はカーボン印画法と呼ばれ、スコットランド人化学者ムンゴ・ホントンが、重クロム酸カリウムの感光性を立証しようと1839年に取り組んだ研究成果に基づくもので、銀塊の代わりに重クロム酸塩を混ぜたゼラチンと粉末のカーボンを使ってポジ像を生み出す技法であった。カーボンを使った印画法の仕上がりは、深く豊かな色調と画像の消えにくさとにより、1860年代には大いに賞賛された。特にヨーロッパで広く用いられ、イギリスで写真の分野に関わる特許を数多く保持していたジョセフ・ウィルソン・スワン(白熱灯の発明者でもあった)によって、さまざまな品質・色合いをもつカーボン・ティッシュの生産が簡易化されて以降、ますます盛んになった。スワンによるカーボン印画法は、イギリスではオートタイプと呼ばれたが、スコットランドのアナン兄弟、ドイツのバンフシュテングル、フランスのブラウンらによってその権利が買い取られ、彼らがそれぞれ運営している大規模な写真出版工場の生産を以前に増して活性化させた。しかしアメリカでは、『ザ・フィラデルフィア・フォトグラファー』というアメリカでも一流の雑誌がカーボン印画法の推進キャンペーンを展開したにもかかわらず、あまり大きな関心の広がりは生じなかった。これはおそらく、金属原版をつくって機械プレスにより写真をプリントしていく方法が、すでに試作の段階へさしかかっていたためであろう。同じく重クロム酸塩を用いる、このもうひとつの技法、ウッドブリータイプは、創始者のイギリス人ウォルター・ウッドブリーにちなんでそう名づけられた。これにより1870年代の初めには、カーボンによる印画生産の不足分が補われ出している。ウッドブリータイプもまた豊かな色調をそなえた耐久性のある画像をもたらしたが、それだけでなく機械によるプリント工程を要素としてもち合わせていたため、もっと大きな生産性を示したのである。写真印画の材料にはこうした進展が見られたが、それでも肖像や風景の分野ではアルビュメン・ぺ一パーの使用は途絶えず、1880年代にネガとプリントの材料に重要な展開が新しく生じて、旧弊化するまで使われつづけていく。色調の表現力に優れたカーボン印画法は、1880年代以降、商業的な写真プリントとしてはごくまれにしか使われなくなったが、ただ他方で絵画主義的な写真家たちが、それを個的な芸術表現のための手段として用していくのだった。