→講義ノート「非水/翠子」年表
  

美術と文学の先端を行く杉浦夫婦―モガ・モボ時代の寵児―

歴史ある大学には、その大学の顔があります。慶応義塾大学の福沢諭吉、早稲田大学の大隈重信、東京芸術大学の岡倉天心などはよく知られていますが、多摩美術大学の場合には、その前身である多摩帝国美術学校の初代校長であった杉浦非水が有名です。

杉浦非水 すぎうら ひすい(1876〜1965) 明治9年5月15日〜昭和40年8月18日
商業美術家。愛媛県生れ。本名朝武。明治34年東京美術学校(現・東京芸大)日本画科卒。ヨーロッパ遊学(大正11年〜13年)を終えて大正14年にポスター研究団体七人社を結成するなど、初期商業デザイン界に指導的な役割をはたした。昭和10年より多摩帝国美術学校(現・多摩美術大学)校長となる。与謝野晶子『夢之華』、田山花袋『髪』、最初の円本の改造社版『現代日本文学全集』などの装幀のほか、『非水百花譜』20集(昭和4年〜9年春陽堂)などの著書も多い。

杉浦非水と言えば日本モダンデザインの先駆者、芸術院恩賜賞を受けた日本画家、三越をイメージアップしたアールヌーボーの天才的デザイナー、そして多摩美術大学の創始者のひとりである教育者というイメージが今日一般的である。

「アフィッシュ」

「デゼグノ」1号 - 10号(創刊準備号含む) 昭和11年に多摩美術大学が発行したデザイン研究雑誌

作品:三越ポスタ  作品:煙草の光 たばこ歴史博物館 地下鉄開通ポスタ

しかし杉浦非水というイメージの中には、そういうえらい立派な硬いイメージだけではなく、何となく軟らかい、ロマンティックな、と言うより文学的イメージがかさなっている。非水というと円本と呼ばれた昭和初期の最初の文学全集改造社版「現代日本文学全集」のアールヌーボー的な瀟洒な装幀、女流歌人与謝野晶子の『夢之華』の華やかな造本作家という文学的雰囲気が浮かんで来る。

事実、正岡子規、高浜虚子、河東碧梧桐などを輩出している俳句王国の松山市の生れであるため、俳句の教養は幼い頃から身について居り、翡翠郎という俳号で俳句をつくり、1905年東京中央新聞入社に際し非水と改めるまでこの号を用いていた。
また与謝野晶子の激烈な歌集『みだれ髪』が出版されるや、藤島武二のアールヌーボー風の表紙にも刺激されて、「みだれ髪カルタ」をつくるなど、非水には詩的精神が濃厚に漂っていた。

それ故に後の閏秀歌人、杉浦翠子に熱烈に愛された。福沢桃介
非水も松山出身の友人で隣に住む出渕豊保の義妹にあたる18歳ながらはやくもただならぬ詩才をただよわす激しい美少女翠子に心奪われたのである。
翠子は万国博のデザインや印刷に忙しい非水をその任地大阪に度々訪ね、事実上の夫婦になる。
そして1904年、出渕豊保の立会で結婚した。非水28歳、翠子18歳であった。

その頃、杉浦非水は黒田清輝、あるいは早く家出した父の影響もあり、西洋のアールヌーボーのデザイン、装飾画に目をつけて、万博に情熱を注いだ後三越に入社してから、人々をあっと驚かすデザイン、広告を数多く発表した。〈今日は帝劇、明日は三越〉と有閑夫人の心をとらえ踊らせた。
その美しい女性のモデルは翠子と思われた。銀ブラし、しゃれたレストラン、カフェなどでコーヒーやカクテルをたのしむ。

この非水28才翠子19才という新デザイナーと新歌人のカップルは婦唱夫随か夫唱婦随の典型的なモガ・モボつまりモダンガール、モダンボーイとポスターからの連想もあり、もてはやされ、人々の憧れの的になった。
そして不思議なことに二人の精神の波長は常に一致しおたがいの新しい冒険を強めあった。
ただ喧嘩ぱやいのは翠子であり、非水は温厚で包擁力があった。

そして翠子は1960年75歳で、非水は1965年89歳でと続くように大往生を遂げた。
非水は翠子と共に生きることによって広く深い人生を送った。それは多摩美大の校風に受け継がれている。

ヨーロッパ 滞在/ピラミッド旅行

1901 孔雀図(日本美術学校卒業制作)