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3. 技術の意味、素材の意味
 3-2. オートポイエシスとしての教育
■ 冨 田

そろそろ会場の方から少しお話をうかがってみたいと思います。

【多摩美の陶作品・10】
  ■ 板 橋

 陶コースの非常勤講師をしている板橋廣美と申します。僕は、いちばん多摩美らしくない授業をやっていると、いわれたことがありますけれども、きょうのお話を聞いていると本当にそう思います。

 というのは、僕は「窯業器材学」というのを、特に技術的な面を中心に講義しているんです。技術は教えないという気持ちなんですが、ただ、やきものの可能性を広げるためのヒントは、どんどん提供できたらいいなぁと思っているんですね。
 やきものには、要するに窯が壊れるとかってことで、やってはいけないことがたくさんありまして、でもそれを、やってよいことにしてしまおう――例えば、鉄の塊をガードして焼いちゃおうとか、ドロドロの土から粉までを陶土として考えてみようとか。

 僕は3年生を相手に授業をしているんですけれども、お話された通り、2年生までは技術の名前もあまり知らない学生が多いもんですから、すごく飢えた感じで、3年生を僕に受け持たせたというのは、中村先生の思惑通り、本当にありがたい話で・・・。

 僕は技術というのは、積みあげていってこそ技術になると思っているんですね。自分で発見したことを1回やっただけでは、技術じゃない。2度3度やることで自分のオリジナルの技術になる。そのオリジナルの技術を育てるための手段が大事で、これからも、やきものの可能性や楽しみ、面白さというものを伝えられたらなぁと思っています。

  ■ 冨 田

続けて、東京芸大のご出身であり現在は先生もされている豊福誠さん、いかがでしょうか。

  ■ 豊 福

 豊福です。私が芸大の常勤の助教授になったのは、2001年です。それから、教育ってものを少しまじめに考えなければいけないと思いまして、きょうは、すごく興味があったんです。

 東京芸大は、先程の中村先生のお話のなかでは、多摩美の対極にあるような教育をやっているところといわれていましたけれども、実際、ロクロ中心の課題の出し方をしています。私自身も学生だったころは、当然のことのように毎日、ロクロを挽かされて、でもじつは反発を感じていたんです。なんでロクロばかりしなきゃいけないんだろう――その疑問を持ちつつ、ある日、ロクロを挽くのをやめたんです。何の技術もってない者が形をつくるのに、自分でいろいろ工夫して、石膏で形をつくるっていうことで、苦労して・・・。

 そのとき、藤本能道先生が、「お前は何を考えているかよくわからんね、何でこんな苦労するんだ」というふうなことをいわれた。でも、それで得たものはすごく多かったと思うんですね。いまでも、課題は出すけど、ロクロの挽き方は、先生たちの見よう見まねで覚えていく。こういう課題を出したから、これができるようになるとか、うまくなるとかっていうことはありえないんですね、自分で発見するものがないと。

 つまり中身としては、中村先生がおっしゃるほど、私は変わらないと思います。ですから、先程からお話のあった多摩美の陶の教育の仕方は、素直にいいなぁと思いました。
 ただし、毎週毎週違う課題が出て、それをぜんぶ形にしたというのが、不思議ですね。

 というのは、いま芸大の学生に出している課題は、短い期限を区切っていなくて、1年を前期と後期2つに分けて2回です。そこには、毎日やらないとできないくらいの内容が、もちろんありますけれども、やらなきゃやらないでいいんです。出席を取るわけでもないですし。

 ただ自分がそこで何をやりたかったか、この一個のものに何を表現したかったかということをきちっと説明できれば、それで我々は満足します。それからもう一つ、同じ課題をずっとこれからもやられていくのか、どういうふうに転換していくのか。
 例えば、大事なのは素材ですよね。1つの素材にこだわって教育していくことが、本当にいいのか、それぞれの素材を乗り越えたところでの造形性というものを考えていくことも必要なのかなと、私はちょっと思っているんですけれども・・・。

  ■ 井 上

 まず質問の、毎週毎週、課題をやっているか、について。
 実際やっています。一週間で形にしてもらいますが完成ではなく、焼くことまではしていません。間違いなく大切なのはトレーニングの回数ですね。じっくり時間をかけて年に2回がいいのか、たとえ毎週の課題でもたかだか年に20回程度。でもその繰り返しの多さが重要であろうと考えているので。

 ただし、全部が完璧な形にできないのは当たり前ですよね。悶々としているのがよくわかるんです。でも、ずっと悶々としていた学生が、あるとき急に変わるんですよね。たぶんそれは、自分のなかで、どれだけつらいことを溜め込んで積みあげていくかによって展開の仕方っていうのはどんどん変わっていくんだろうなと。そういうこともあって、課題は回数多くやっています。

 もう一つは、素材のことです。こちらが発想とか考え方を柔軟にしようといっていると、やはり学年を重ねると素材から離れる学生が出てきますね。素材というか、やきものから離れていく。やきもの以外の卒業制作を提出した学生も何人かは出ています。本当は、やきものをやってほしいと思っているとしても、その学生のいままでの積み重ねを否定するわけにはいかないってこともありますねからね。ただその辺ちょっと、逡巡するところもあるんですけれども。

  ■ 冨 田

ここまでは実技教育をなさっている方からのお話でしたので、別なお立場から、北澤憲昭さん、何かひとこといただけますか?

  ■ 北 澤

 僕は文学部で教えているのですが、お話をうかがっていて、やっぱりえらい違いだなぁと実感いたしました。教師というのは良き対話者でなければならない――これは文学部の教師も同じなんですけれども、美大の場合、授業以外の時間の持つ意味が、非常に重い。その点が、僕が教えているような教養系大学の文学部などとは、決定的に違うんだなということが改めて了解できました。

 教養系大学の学生は、どんなに勉強家でも、四六時中、研究のことを考えているということは、まずありえない。たとえ、あったとしても卒論作成の一時期に限られています。それに対して、美大生の場合、豊福さんがおっしゃったように、何をしていてもいいんだけれども、たとえ何をしていても「つくる」ということへ向けて意識がたえず働いている、そういう時間が大きな意味をもっている。そうした時間のなかで、よき対話者としての教師と出会い、実際に物とのかかわりを学んでゆく――こうしたことは文学部の場合には、ちょっとありえない。研究者志望の学生の場合は別ですが、それはごく少数にかぎられています。

 とくに質問があるわけではないのですが、技法=材料的なことを教え込まずにトレーニングするっていうのは、いったいどうやってやるんだろう――と、やりとりを聞きながら、漠然と考えておりました。

 しかし、それが可能となるのは、いま申し上げたような時間を前提としてのことなのだということがわかりました。オートポイエシスという言葉がありますけれども、自己創作の力――これがやっぱり大切なんだなぁということを感じました。
 しかし、オートポイエシスに基礎づけられる教育というのは、純然たるエリート教育なのだということも、同時に思います。以上です。

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