映画の原理・視覚伝達のしくみ

動画記録の発明
 物の動きを記録して、その様子を見たいとは、永い間の人類の夢でした。
 
19世紀後半になって、仏・マレー、米・マイブリッジ、独・アンシュッツを初めとして多くの研究者によって、写真技術を利用した動く写真の試みがなされました。
 英・ディクソンはエジソンに映画の提案をしました。
 1993年アメリカにおいて、イーストマンとエジソンによって、キネトスコープが開発され、その完成度の高さゆえ、話題を起こしました。
 ここに映画は第一歩を歩み始めました。
 そのしくみは独特で、イーストマンの供給したパーフォレーションのついたセルロイドベースの35mmフィルムに連続した映像の写真記録・覗き見再生を成功させました。
 再生に使った映写機はキネトスコープという名で、間欠機構を持たない連続走行運動の再生映写装置でスリットシャッターによるストロボ効果による仕組みでした。
 一人で見るビュワー式タイプのこの装置は、20秒たらずの映像をループ状につなぎ、エンドレスの覗き見装置となっていました。
 すでに人気を得た、エジソン社の鑞管蓄音機キネトフォン同様、コインを入れて一定時間見ることが出来、パーラーなどの人が集まる場所に設置され人気を博しました。

映画の誕生           
 1895年フランス・パリにおいて、リュミエール兄弟は、アメリカでのキネトスコープ人気を契機に、エジソン社の覗き見式のキネトスコープに対して大勢で見える、今日の映画の原型ともいうべき、スクリーン式のシネマトグラフを完成させました。  
 映像はきわものの多いキネトスコープに対して、生活を中心に‘日常の風景’を生き生きと スクリーンに映写し、有料で大勢の人にその動く画のすばらしさを伝えました。
 これは今日の映画と変わらない方法でしたので、アメリカ 以外では、これをもって一般に映画の誕生としています。

映画のしくみ・カラクリ     
 映画の誕生時には、1秒間に16枚の画像を記録(撮影)して画像処理(現像)していました。それを焼付け(プリント)して上映(再生)してていました。1930年以後には、音がついてトーキーの時代となります。
 音を記録するためには、1秒間に24枚の画像の長さ分が必要でした。
 それ以来、画像の記録、再生は1秒間に24枚になり‘世界統一のしくみ’になっています。
 なぜ、16枚なり24枚の画が必要なのかは、パラパラ漫画を思い浮かべて見ましょう。描く枚数が多くなると大変ですし、フィルムも多量に使用することとなり、経済的にも大変です。しかし少なすぎると動きがぎこちなく、見ずらくなります。
 私達の眼は、1秒間に50から60回以上の刺激(チラツキ)に対して、チラツキとして感じなくなる特性をもっています。それは、残像現象といわれるもので瞬時の光刺激を蓄えて記録して、減少していく性質があるからです。その結果、これを満たす1秒間に50から60回以上の刺激(チラツキ)ならば、チラツキとして感じなくなるということを知っていましたので、撮影の時には1秒間に16枚なり24枚の画像をフィルムに記録していました。
 無声映画の映写の仕組みは、1秒間に16枚の画像を、1枚あたり3回のチラツキをつけて映写しました。トーキーになってからは、1秒間に24枚になり、1枚あたり2回のチラツキをつけています。
 私達の生活にある蛍光灯は、1秒間に100から120回チラついています。テレビは30枚の画を2倍の60回のチラツキで放送しています。このように、今日まで、動く画像を見せる場合、すべて、視覚の残像現象を上手に使い、‘チラツキ‘で見せていることになります。人間には重要なしくみ‘カラクリ’ですが、人間以外の動物にはどう見えているのか興味があります。
 このようにして作られる‘チラツキ’は、見る人に興味がなければ、ただの動きの様態です。テレビもただの明かり・雑音となってしまいます。見る人が内容興味をしめせば、‘チラツキ’装置は有効な情報表示装置、いや、一生を左右させる、考えさせる運命提示装置ともなります。
 意味深い‘チラツキ’の中には、一枚一枚の情報を含んだチラツキ(必要な情報)と画像が移動するためのチラツキ(いらない情報)があります。必要な情報はもっとよく長く多く見たいし、いらない情報はジャマとなります。これらチラツキをもちいたものが‘カラクリ’しかけとなります。              
 パラパラ漫画では、画が平面に拡げられ知覚したときが必要な情報です。次の画については、めくられ落ちる様子をみています。わずかな時間ですので、動き落ちる様子は判りますが、瞬間のことなので、次の画の描かれている物は早すぎて、認識できません。この動き落ちる様子は普通、いらない情報として見ています。よって、この状態はいらない物がチラツキにあたります。やがてめくられ落ちて、前の画の上に安定した次ぎの画が平面に拡げられてしまえば見ること(必要な情報)が可能となります。この連続をパラパラ漫画に見ることが出来ます。つまり必要な情報といらない情報の連続として見ることが出来ます。
 拡げられ画と次に拡げられ画の連続は、体験した日常の世界や見る人の潜在世界(想像世界)に触れ、結果ある近い変化・動きに似たものとして知覚・理解出来るならば、見たものがたとえ、一枚一枚の静止画であろうとも私達は、これらが変化した・動いたとして知覚する性質、一連の動きとして理解する能力を持っているということなのです。これは100年前より映画にはじまる今日の映像の‘カラクリ’しかけとなっています。
 パラパラ漫画での必要な情報は言葉ではないメッセージ方法です。映像メッセージの原点として捕らえることが出来ます。
 パラパラ漫画でのいらない情報は映画・映像の世界では、画が移動するためのチラツキは、いらない情報なので、時間的に短いほど良く、黒くしたり光りを与えないことなどで刺激に対応しています。
 以上、パラパラ漫画を例に上げましたが、パラパラ漫画はそれ自体、必要な情報や、いらない情報を含んで、動き・感触・展開を楽しむという独自の世界を持っています。             top