まえがき この修了論文では私が今まで制作した作品と、作品を制作するうえで影響を受けた作品について述べていきたいとおもいます。今まで制作してきた作品を文章で表現することで、今までとは違う視点から作品を制作すること ができると思います。 また、どうしてそのような作品を作る事になったのか、作品を制作する上で影響を受けた作品についても述べたいと思います。例えば、ある音楽のイメージから発想を膨らませて自分の作る作品の世界観を作っていったりある本を読んで、その文章から映像のイメージへ展開していく場合もあります。 音楽や本、映画、マンガなど様々なジャンルの作品から影響を受けながら作品は作られていくと思うのですが、それらの影響を受けた作品を見直すことで、自分のもつ作品の世界観を再認識できるのではと思い、このようなテーマで論文を書くことに決めました。 私は現在、絵本のような映像作品を制作しているのですが、この映像作品の原点となった作品について述べたいと思います。 『万引き』という作品について― 私が学部の3年生のとき絵本を作る授業がありました。この頃教職課程をとっていまして学校の先生になったかたの体験談を読み、この本に影響を受けまして『万引き』という題名の絵本を作りました。 この本の内容は再婚した家庭のなかで連れ子の男の子が義理の父親ともうまく関係が持てず新しく生まれた妹のために実の母親からもかまってもらえず、担任の先生が男の子の心の支えとなる物語でした。 この授業の目的は版画の技法を用いて絵本を制作するものでテーマは自由でした。そこで私は版画でこの物語に登場する男の子の日常の生活や家庭の中の風景などを版画で表現しました。ある意味、社会問題ともとらえられるテーマをあえて絵本に出てくるようなイラストのタッチで描くことである主のギャップを表現できたと思います。 この作品を制作しているときに教育についても勉強をしていたのですが、この作品にも参考とした先生になった方の体験談の本『眠れぬ夜の教師のために』三上満/著を読んで先生という仕事にも限界があり生徒の家庭の中の問題にまで入り込めないという現実の問題を考えさせられました。 そしてこの絵本作品『万引き』がきっかけとなり学部の卒業作品『さよなら、おとうさん』を作る事になりました。 『さよなら、おとうさん』について― 絵本の場合、作品を表現する方法は紙媒体であるのですが、それを映像という手段で表現すればまた違った世界観を作ることができるのではないかと思い、映像作品を作ることにしました。紙に印刷されたイラストとテレビのモニターに映しだされたイラストの見え方の違いがまずあると思いますし、一枚のイラストをとってみてもカメラの撮り方によって構図も変わってくると思います。音が入ることでイラストの印象も変わってくると思います。 映像作品『さよなら、おとうさん』の物語のテーマも『万引き』と同じように家族がテーマとなっています。いつの時代でも変わらぬ普遍的なものであり、人間にとって最も根本になるものであると思えたからです。 作品の内容は、義理の父親と実の母親と息子の三人家族が家庭崩壊に陥る話で、家族の葛藤や男女の愛憎を映像を通して描いたものでこのようなぎりぎりの極限状態の中ではじめて人間というものが表現できるのではないかと思いこのような物語を考えました。 最初の設定ではあくまでも家族の話だったのですが、途中から父親と母親との関係から男女の愛憎という問題に焦点が絞られていきました。脚本を描いていて、男が女に対して愛情を持ったり激しく嫉妬したりそういった男女の情念のようなものを表現することの方がおもしろくなってきたというのがあります。これは後でふれますが映画監督石井隆の影響が強いと思います。 イラストのタッチや作品の世界観などは石井隆の描く劇画にかなり影響を受けています。 石井隆という人は、男と女の関係を劇画や映画などの作品で表現している人で、そういった作品から人間の男や女としてのおもしろさを感じました。私の作品には様々なタイプの人物が登場するのですが、そういった人物を表現するのに石井隆の描く人間を参考とした部分は多かったです。また彼の描く世界観 はとにかく暗く、その暗さに惹かれたという のもありました。 描くイラストの画風は話の内容がシリアスなので子ども向けのデフォルメされたイラストからあくまでもリアルな写実的なイラストに変わりました 作品の表現方法としましては、自分で脚本を描きそれを朗読し紙芝居のような感じで、物語の場面ごとに話の内容にあったイラストや音楽を映像に挿入するという映像作品でし た。 ではここからは映像作品『さよなら、おとうさん』を制作するうえで影響を受けた作品や作家について述べていきたいと思います。 映画監督石井隆について― 私が最もショックを受けた映画は石井隆監督の『ヌードの夜』(93)でした。そこで映画監督石井隆について述べたいと思います。 宮城県仙台市生まれ。若き頃より映画を志しますが、持病の喘息により映画界入りを断念します。その後、劇画家として活動しますが、日活で『天使のはらわた』(78)が映画化され、続く『天使のはらわた 赤い教室』(79)では脚本を担当。『天使のはらわた 赤い眩暈』(88)でついに監督デビューを果たします。以上Cinelesson6〈日本製映画〉の読み方 1980‐1999(フィルムアート社)より参照という経歴を持つ映画監督石井隆ですが彼の描く作品には劇画にしても映画にしても必ず名美という女と村木という男が必ず登場し、この二人の情念のようなものが描かれています。石井隆が描く名美という女は男にとって絶望的な存在であり、最初から何かを欠落しており、その名美という女を愛するということで村木という男の悲劇が訪れるのかもしれません。そのためなのかわかりませんが石井隆の描く作品は決してハッピーエンドで終わることはなく、絶望的な闇さのなかで幕を閉じるものが多いのです。 また石井隆の描く世界は途中から、この世ともあの世ともくべつのつかない世界を描き表現のしかたもとても幻想的で一度死んだはずの名美が再び村木の元に現われたり、たとえ肉体を離たとしても精神的な部分、たとえば魂にまで名美という女と村木という男を表現したかったのではないかと思います 例えば映画『赤い眩暈』の中で柄本明演じるヤクザの男にピストルで撃たれた竹中直人演じる村木が、死んだ後、魂となり空中を飛び名美を追いかけるラストシーンや、映画『ヌードの夜』でもピストルで撃たれて死んだはずの名美が村木の元に現われるシーンなど死んでもなお相手を愛し続ける、執着心のようなものを感じました また劇画作品『赤い眩暈』では車に轢かれた女性が、あの世らしき世界を彷徨い廃虚の中で男と情交を繰り返すという話でしたがここでは村木や名美は登場せず幻想的な世界の中で男と女の真の姿を表現していました。 脚本家野島伸二について― そしてもう一人『さよなら、おとうさん』 の世界観を作る上で影響を受けた、ある脚本家について述べたいと思います。彼の名前は野島伸二。彼はテレビドラマの脚本家です。主な代表作は『101回目のプロポーズ』(91)最高視聴率36.7%『ひとつ屋根の下』(93)最高視聴率37.8%などの作品の脚本をてがけた人物です。これらの作品は驚異的な視聴率を記録するオバケ番組だったのですが、そんな彼の作品の中で私が興味を持ったのは『この世の果て』(94)というドラマでした。このドラマは彼がてがけた他の作品と比べて爆発的な視聴率をとるような番組ではなかったのですがとても完成度の高い番組でした このドラマは物語の全編を通して、とにかく暗くそれまでのテレビドラマと比べると、とても対照的なドラマでした。物語のあらすじは、高名な元ピアニストの男がある女性と出会いやがて破滅へと向かっていくという暗く重たい物語です。 ではこの作品のどこに私が惹かれたのか。 それは、これまでの恋愛ドラマでは、どの登場人物もただカッコ良かったり、オシャレだったり、カワイかったりと役者やタレントの人気に寄り掛かかったドラマが多く、そういった作品では結局、薄っぺらい人間しか描けてなかったのですが、このドラマの場合あえて人間のエゴというものを描くことで人間の本質というところまで、このドラマは表現していたと思います もう一度物語の内容について説明しますが愛する女性のために自ら手を傷つけピアニスト生命を断った主人公は、ピアノを弾く以外何もできない自分に苦しみ唯一の才能を絶ったのは愛する女性のせいだとエゴが噴出する。この物語ではそんな人間の醜さや弱さ、それでも結局は愛にすがるしかない人間の本質というものを描いていました このテレビドラマが放映されていた当時、私はまだ十代だったのですが、男女の言い争いのシーンで、ドラマのヒロインに包丁を持たせて主人公の男の頬に傷つけさせたり、覚醒剤に溺れた主人公が禁断症状でヒロインのお腹の子を流産させたりと、まさに男と女の修羅場を描いていて、それまでは月曜9時のフジテレビ放送枠では、トレンディードラマといわれる、オシャレで甘い恋愛ドラマばかり放送されていたのに、このような暗く重い恋愛ドラマにとても衝撃を受けました このドラマの場合、物語の世界観が暗く重いものだったせいか万人に好かれるような作品にはならず驚異的な視聴率をとることはなかったのですが作品としての完成度は高かったと思います。脚本家が作品の中に独自の世界観を持っており、その世界観を演出家がきちんと表現していました また三上博史、鈴木保奈美をはじめ演技力のある役者たちが熱演されていて、このドラマをとても魅力的なものにしていました ドラマに挿入する音楽も作品の世界観をうまく表現していてドラマに厚みを持たせていました。溝口肇の奏でるチェロの旋律は、ど こか悲しく、儚げで哀愁を帯びたものでした が、暗く重い世界を美しく品の良いものに変えていました これらドラマに携わる全ての人たちがレベルの高い仕事をした結果、これだけ完成度の高いドラマに仕上がったのではないでしょうか では、このドラマのどこが『さよなら、おとうさん』に影響を与えたのか述べましょう。まず一つは、登場人物を描く上で影響を受けました。このドラマでは主人公を通して人間の持つエゴや醜さや、弱さを描いていましたが『さよなら、おとうさん』でも作品に登場する、働かず子どもに暴力を振るう義理の父親を描きながら、人間の本質を描きました また作品の持つ暗く重い世界を表現するのにも影響を受けました この野島伸二という人が人間をどのようにして描くか、とてもうまく物語っている文章があるので、その文章を載せます。「人間の持っている負の部分、闇の部分をさらけ出し、その闇の中で見つけたほんの少しの明かりがものすごく輝いて見えるという手法が、好き嫌いはあるにしろ、野島さんは非常にうまい」(大多プロデューサー)以上『月9ドラマ青春グラフィティ』古池田しちみ/著(株式会社同文書院)より引用 このドラマを通して人間を描くことのおもしろさを感じ、自分の作品の世界観を広げていったように思います。 『さよなら、おとうさん』を作り終えて― では、最後に『さよなら、おとうさん』を作り終えての感想を述べたいと思います 自分の頭のなかで浮かんだイメージを、映像で再現したのですが、8割ぐらいはそのイメージに近づけることができた作品だったと思います。イラストと朗読と音楽のうまく合わさった映像に前半はなっていたのですが、後半になると、1枚のイラストの静止する時間が長くなって、飽きてしまうという感じになってしまいました しかし全体的には、イラストと朗読と音楽という表現方法で自分の持つ世界観を表現できたと思います。ただ、真に迫るお芝居ができず、プロの人が朗読すれば、さらに作品としての完成度が上がったのでは、という問題点が残りました 石井隆の作品で描かれている観念的な世界観や野島伸二が描く人間像というものに深く影響されながらできた作品が『さよなら、おとうさん』でした。 『ごめんね、ちーちゃん』について― では、ここからは大学院に入学してからの 作品について述べたいと思います 学部の卒業作品として『さよなら、おとうさん』を制作したのですが、もう一度このような、家族や親と子の関係をテーマとして扱った映像作品を作りたいと思っているときに現在、社会問題とされている「児童虐待」や「アダルト・チルドレン」について書かれた本を読み、今の日本の家族の姿を表わした深刻な問題の一つだと思い、このテーマで映像作品を作ることに決めました 今まで、私が映像作品を作る場合、自分の世界観を強く押し出した作品が多かったのですが、こういったテーマを扱う場合、自分の世界観だけでは作れません。自分の作品に幅を持たせる意味でも、このテーマで作品を作ることにしました。 日本の「児童虐待」の現状― では、その「児童虐待」について、NHKで放送された番組を基に説明しましょう 全国の児童相談所には非行や家出など18歳未満の子どもについて、あらゆる問題が持ち込まれます。その中で、ここ数年急激に増えているのが、親が子どもに対して暴力を振るう、児童虐待です 愛情を注いでくれるはずの親から暴力を振るわれる子どもたち。深刻化する「児童虐待」とその対応に苦悩する児童相談所を取材した番組でした 子どもの人工は年々減り続けています。女性一人あたりが、一生の内に生む子どもの数は、1.38人にまで落ち込みました。その一方で、虐待される子どもたちが急速に増えています 全国各地の児童相談所に寄せられた児童虐待の相談件数はこの10年間で7倍、年間およそ7000件にのぼっています 年々、深刻さを増す「児童虐待」。今年度、全国の児童相談所に寄せられる虐待についての相談は、昨年度の7000件をさらに上回る見通しです。 日本は今、子どもを保護するための基準づくりや、体制の整備を進めようとしています。虐待に苦しむ子どもたちを、どう救うのか具対策の議論はまだ始まったばかりです。以上NHKスペシャル 子どもをどう救うのか 〜児童虐待・苦悩する対策の現場〜/NHK総合 より参照。 サイコセラピストの声― では児童虐待を行ってしまう、心に問題のある患者を治療する立場の、医師の側から『アダルト・チルドレンと癒し 本当の自分を取り戻す』西尾和美/著という本を基に紹介したいと思います 子どものとき、心を傷つつけるような言動や暴力のある家庭で育ったため、心や人間関係に障害をもつようになった人のことを、アダルト・チルドレンといいます アダルト・チルドレンは、大人になっても、子どものとき受けた心の傷を抱えつづけています 子どものとき、自分の家族のなかで受けた心の傷は、その人の現在の生活、人生に大きな悪影響を与えます。それがあまりにひどい場合には、生きていること自体がつらいものになります そしてさらに問題なのは、次の世代にも同じ悪影響を伝えてしまうということです。自分の問題に気がつかないと、自分だけでなく、まわりの人や次の世代の人生をみじめなものにしてしまうのです。だからこそ、機能不全な家族で育った人は、自分をいたわり、自分 の癒しをする責任があるのです。 『ごめんね、ちーちゃん』の作品表現について― そしてこの本を基に描いた作品が、『ごめんね、ちーちゃん』でした。この作品では、昔、親から虐待を受けたことのある女性患者の治療の過程を基にして描いた作品でした この映像作品の表現方法としましては、この治療の過程を基に脚本を書き、それを朗読し、物語の場面ごとに話の内容にあったイラストや写真を映像に挿入するというものでした では、この作品を通して何を表現したかったのかといえば、家族のありかたや、親と子の関係というものを「児童虐待」や「アダルト・チルドレン」という問題を通して、もう一度見つめ直そうということです 「児童虐待」という社会問題を扱った報道番組など、問題に対応する児童相談所の職員や、治療を行う精神療法家(サイコセラピスト)などの現場の人たちの姿はみえるのですが、虐待を行う親の姿がみえてこないのです しかし、西尾和美さんが書かれた『アダルト・チルドレンと癒し 本当の自分をとりもどす』の中では、虐待を行う親の心の苦しみというものが、治療を行いながらみえてきて、この親の心の叫びというものを映像作品で表現できないかと思い、制作することにしました。 親が子どもに対して虐待を行うという荒んだ家庭環境のなかで、みえてくる人間の弱さ、脆さ、いかに人間にとって親の愛情というものが大事なことか、親から十分に愛情を得られなかった人たちの心の叫びを表現することで人間の本質を表現したかったのです。 『ごめんね、ちーちゃん』を作り終えて― そして最後に、作品を終えての感想を述べたいと思います この作品の場合『さよなら、おとうさん』とは違い音楽を映像に挿入しませんでした。それというのも朗読の声だけの方が映像として緊張感がでると思ったのですが、実際は朗読が下手だったため、あまり魅力のない映像に仕上がってしまいました また20分の作品として考えた場合、音楽が無いぶん、シーンとシーンとの繋ぎの部分など、間が持たなくなってしまったり、作品全体を通して締りのない作品になってしまいました セラピストや患者さんに取材を行わないで、本からの情報だけで、脚本を書いたので脚本としての完成が低く、作品を鑑賞する側が作品に入り込めないという反省点も残りました このように社会的な問題をテーマとして作品を作る事の難しさを教えられました 2年生前期作品について― では、ここからは2年生になってからの作品について述べたいと思います 今度作る映像作品は、子どもの視点からみた大人の世界を描くというものでした 話の内容は、夜の勤めに出かけたお母さんを待ちきれず、駅まで向かいに行く、ある幼稚園児の物語です。この男の子の目を通して映った夜の街を描いたものです これが修了作品として発表する物語の内容なのですが、ここからは前期作品として発表した修了作品の予告編について説明していきたいと思います この予告編は、あくまでも『ガレキの街』(修了作品)の世界観を伝えるためのイメージ映像でした 『ガレキの街』という作品は子どもの目から見た、大人の世界というものを表現するという作品なので、この作品の世界観を伝えるために、予告編では、実際に子どもたちが描いた児童画を使った映像作品にしました。 児童画を通して分かる子どもの心― では、この児童画と児童心理学について『原色子どもの絵診断辞典』浅利篤 監修/日本児童画研究会/編著という本を基に説明したいと思います この本による児童画診断法は子どもの心・環境・健康状態などを読み取る方法です 子どもの絵の色や形が、子どもの心と象徴であり、反映であることを証明し、その心と象徴としての色や形との間にある法則的な関係を明らかにするものです では、ここからは子どもたちの描いた、絵を例にあげながら色彩と子どもの心との関係について説明したいと思います。黄…いつまでも子どもでいたい、母のふところに甘えていたいという幼児的願望に原型があり、愛してほしい、かわいがってほしい、守ってほしい、満たしてほしいといった自己中心的な「求める心」に対応する色です。黒…「恐怖と不安」の象徴です。親のきびしい叱責や干渉のもとで、不安や恐怖におびえる子ども、自分の本当の感情や欲望を表に出すと、手ひどい叱責にあうことを恐れ、ひたすら自分の感情を抑圧している子どもが、好んで黒を使います。 以上『原色 子どもの絵診断事典』浅利 篤監修/日本児童画研究会 編著/株式会社黎明書房 発行所より参照 ガレキの街(予告編)を作り終えて― このように紹介してきた児童画を使ってコラージュ的映像作品で、子どもの世界というものを表現したかったのですが、『ガレキの街』本編とは少しイメージが離れてしまい、児童画と子どもの心との関係について説明するだけの中途半端な作品に仕上がってしまいました こういったテーマで作品を制作するのなら、『ガレキの街』という作品を離れて、児童心理学というテーマで一つに絞って作品を作るべきだと反省しました また、こういった題材で作品を作ることの不自由さも感じました 最後に、これまで述べた児童画と児童心理学について述べたいと思います。これまで私は美術教育というものを受けてきて、写実的な絵を描くことが正しい表現方法だと思っていたのですが、子どもの描く絵をみて上手、下手を超えて、何か心に訴えかけるものがあり、それは、心の苦しみを絵で表現したものかもしれませんが、けっして大人では描けない、その感性の豊かさに驚きました。 『ガレキの街』本編の発想の原点ついて― この作品を制作するにあたって、特に強くこういう話で映像作品を作ろうという意識は無く、帰宅する時に夜の歓楽街を歩いていてなんとなく思いついた作品です もし、この夜の歓楽街を園児が歩いていたら、この子には、この街がどんなふうにみえるのか。またもし、自分が園児だったら、この夜の街をどんなふうに感じるのか、そんなことを考えていたら、おもしろくなって、作品に対するイメージが膨らんでいきました 今までの作品は、作品を通して人間の本質を探ってみたり「児童虐待」という社会問題を扱った作品を作っていましたが、そういったテーマに縛られず、もっと自由な発想で、肩の力を抜いて作品を作りたいと思いましてとにかく、ただ思いつくまま作品を制作しました もとの発想は、最初に頭の中でこの映像作品のラストシーンがビジュアルイメージとして浮かんで、そこから逆算してストーリーは作られていきました 頭の中で浮かんだ、このラストシーンとは瓦礫の中で一人の子どもが、月を背にして座っているもので、なんでこんな絵が頭に浮かんだのかは、分かりません そして、この子どもを主人公にしたストーリーが作られていきました ですから、この子が駅までお母さんを迎えにいくという話も、後からこじつけで作った話です。 作品の表現方法について― 映像に挿入するイラストも、これまでの画風とは異なるものになりました。これまでの作品は話の内容がシリアスだったので、作品の世界観を伝えるためにも、リアルで生々しく描いたイラストだったのですが、今回の作品はもっと柔らかい感じの作品をイメージしていたので、前のページで紹介しました絵本作品『万引き』のようなデフォルメされたキヤラクターで、どちらかというとカワイイ感じのイラストになりました この作品でメインとなるのが、夜の歓楽街でのシーンなのですが、この夜の歓楽街を歩いていて、子どもは何を想像しながら歩くのかと考えたとき、ピノキオの話が頭に浮かびました 昔、自分が子どもだった頃、ピノキオの話が、とっても怖かったことを思い出しました ここで、そのピノキオの話について説明したいと思います。ピノキオは学校に行かず、馬車に乗って遊園地に行ってしまい、お菓子を食べて遊んでばかりいました。そしてある日、鏡を見るとロバの耳が生えていました そして、ピノキオのまわりの友達もみんなロバに変身してしまい、このロバに変身する過程が怖く、このピノキオという話がとても怖い話だと子どもながらに感じました もし、自分があの頃、この夜の歓楽街を歩いていたら、きっとあのピノキオの話を思い出すだろうと思いました すると、呼び込みをするオジサン達が、ピノキオを遊園地に連れて行った、あの悪い大人にみえてきました。そしてスナックに入ろ うとする背広を着た、お客さんたちが、やがてロバに変身してしまう。そんなことを想像しました スナックとは、勉強も仕事もせず、遊ぶ所。きっとあそこに行くと、みんなロバになってしまうんだ。そしてあの呼び込みをするオジサン達に、サーカスへ、売られてしまう。そんなことを想像しました 話の内容としては、くだらないものでも、ある程度、力をを抜いて作品を作っても、面白いものができると思い、作品を作ることにしました。 作品を作る上で影響を受けた絵本について― 子どもの視点で作品を作るというところから、絵本を参考にしました では、ここで作品を制作する上で参考にした絵本『タマミちゃんハーイ』オーシマタエコ著/株式会社童心社 発行について説明したいと思います。 この話は、小学生のある女の子が転校してきて、友達ができず独りでいると、歌って踊れる不思議なオタマジャクシのタマミちゃんと出会います。すると、それまで寂しかった生活から楽しいものに変わるというお話しです この話は、子どもの頃、誰もが体験したことのある飼っていたペットとの悲しい別れや、一人で遊ぶことよりも、友達と遊ぶこと(集団生活)の大切さについて描かれたお話しでした では、この絵本から作品を制作する上で影響を受けたところについて説明したいと思います。一番感じたところは、自由なイラストのタッチでした。私がこれまで描いてきた『さよなら、おとうさん』や『ごめんね、ちーちゃん』などのイラストはモデルさんの写真を基にリアルに描く分、描きながらものすごく苦痛を感じ、作品を制作することの不自由さを感じていたのですが、この『タマミちゃんハーイ』のイラストをみて、写実的な絵ではないけれど、線の一本一本にまで描くことの楽しさを感じさせ、それでいて子どもの孤独な気持ちや、子どもにとっての自立心というものまで表現していて、とてもすばらしい絵本だと思いました。 映画監督ティム・バートンについて― そして、子ども向けの絵本ではないのですが、映画監督のティム・バートンの描く絵本についても紹介したいと思います ティム・バートンの映画の主な代表作は『バットマン』(1989)や『シザーハンズ』(1990)『ナイトメアー・ビフォア・クリスマス』(1993)『エド・ウッド』(1994)などの作品があるのですが、ここでティム・バートンの作る映画について自分なりの意見を述べたいと思います 彼の作る映画は似た傾向があり、マンガチックな、毒のあるエンターテイメント作品という印象をもっています アニメーター出身ということもあり、彼の映画の美術デザインはとても美しく、建物のセットにしても、衣装にしても、まるでマンガやアニメの世界から飛び出してきたようなものが多く、こういったものを使いながら彼、独自の世界観を映画の中で構築しているのではないでしょうか。 ティム・バートンの描く絵本について― 先ほども紹介しましたが彼は元々、ディズニー・スタジオでアニメーターとして働いていたこともあり、イラストを描くことがうまく、彼の持っている独自の世界観を異常なユーモアのセンスで絵本として表現していました 彼の描く絵本は、理屈でどうこうというよりも、自分で感じたまま自由に描いていて、映画を作るよりも楽しんでいるように感じました では、ここでティム・バートンの描いた絵本『オイスター・ボーイの憂鬱な死』について紹介したいと思います この絵本には、ティム・バートンが描いた短編の話がいくつかあって構成されているのですが、その中の一編『有毒少年ロイ』について述べます。 この話の内容は、煙草の煙や車の排気ガスが大好物の気色悪い少年が、ある日、きれいな空気を吸うために、お庭に放っておかれて死んでしまうという、ティム・バートンならではの、ブラックユーモアにあふれた、お話しでした。 では、ここで『ガレキの街』を作る上で、ティム・バートンの絵本から影響を受けたところについて述べたいと思います 彼の描く絵本には、独特の世界観が展開されていて、特に話らしい話もなく、思いつきだけで描いたような印象もあるのですが、なぜか惹きつけるものがあり、『ガレキの街』でも、あまりストーリーにこだわらず、思いつくままに、自分の世界観を表現しようと思いました。 では、ここでもう一度『ガレキの街』の制作過程について述べたいと思います。音楽を挿入する上で気をつけたところ― 映像作品の中で音楽というものは、とても重要な位置を占めていまして、絵本などの紙媒体では表現できない手段の一つだと思います 以前音楽の挿入しない『ごめんね、ちーちゃん』という映像作品を制作したのですが、朗読の声だけでは、間がもちませんでした。質の高い作品をを作るには、音楽というものが重要になってくると思います では『ガレキの街』で挿入した曲について説明したいと思います 今回、作品に挿入した曲は、エリック・サティ(1866〜1925)のグノシェンヌの第一番という曲です。有名な曲で、CMや映画などで使われ一度は耳にした人も多いと思います この曲を選んだ理由としては『ガレキの街』の持つ暗い世界観を表現するのに適した曲だと思いました。この曲はとてもゆっくりした曲で、それでいて、何か欠落しているような、不安を感じさせるという印象をもち、この曲を選びました この曲のおかげで『ガレキの街』の夕方から夜にかけて、主人公の男の子が、だんだん不安になってくる気持ちを音楽で表現できたのではないでしょうか。 編集をする上で気をつけたところ― イラストを全て描き終え、映像に挿入する曲を決めた時点で、だいたい頭の中で決まっていました イラストは、編集する順番に描きましたし撮影も編集しやすいように順番通りに撮っていきました 編集作業を終えて感じたことは、5分という短い作品ですが、挿入するイラストの数が多かったので、曲はゆっくりしているのに、とても速い感じの、良い意味でいえば飽きさせない作品に仕上がりました 頭の中ですでに映像が出来上がっていたので、編集作業はそれほど大変ではなかったのですが、最後のラストシーンで、瓦礫の中、一人たたずむ少年の絵で、終わらせるのですが、このシーンでは、最後にピアノの音の弾き終えた余韻を残した終わり方をしたかったので、このラストシーンをきれいに決まらせて編集しようと心掛けました。 作品を通して何を表現したかったのか― 子どもの視点からみた大人の世界を、独特のユーモアで描くという事をテーマとして、映像作品で表現したのですが、本当は頭の中で浮かんだイメージを感じたままに表現したというのが本当のところです。 作品を終えての感想― イラストを描きながら、作品全体の世界観というのは、だいたいみえているのですが、音楽の入った映像作品となると、さらに厚みができて、自分では想像のつかない表現になることもあります。しかしこの作品は最初に頭の中で浮かんだイメージに、かなり近ずくことができた作品となりました ただ『ガレキの街』の予告編とは作品のもつイメージが、かなり異なっていまして、あの予告編は失敗だったと思います。 全体を通して、四つの作品をみながらの比較― 今回この論文で紹介しました『万引き』(絵本作品)から『ガレキの街』まで一貫して私が描く作品の世界観は暗いという印象をもちました これは狙っているわけではないのですが、明るい作品というのは自分では照れて作れないというのがあります。しかし改めて見直すと暗すぎて、あまり心地の良いものではなくもっと明るい作品を作ろうと思っています。ただ作る上でそういった重い題材に興味を惹かれてしまうという事があります どうせ作品を作るのなら、価値のある題材で作品を作りたいという欲求があるので、どうしても重いテーマを選んでしまうのかもしれません。 作品を作る上での変化― 『万引き』という作品から、家族や人間というものを表現しまして『さよなら、おとうさん』でも映像という表現方法を使いながら人間の本質というものを模索して『ごめんね、ちーちゃん』は児童虐待という社会問題を扱いながら、人間にとっての愛とは何なのか、そういう暗く重い世界までテーマはいってしまったのですが、そうなると作品を制作する上でかなり苦痛を感じてきて、もっと自由な感じで楽しい作品を作りたいという欲求を感じていました。そして、出来上がった作品が『ガレキの街』でした 作品の質から考えれば『さよなら、おとうさん』は18分という比較的長い作品ながら、イラストも写実的でレベルの高い作品でしたが、『ごめんね、ちーちゃん』で失敗してしまいました。イラストはきちんと描けていたのですが、児童虐待というテーマに作品が負けてしまいました 結局、家族とは何か、人間とは何なのかと、社会問題まで織り込みながら、模索し自分なりの暗く重い世界観を映像で表現してきたのですが、だんだんそんな事はどうでもよくなってきて、自分で表現したいもの、作りたい ものを作るという気持ちに変わってきました。 今まで作品を制作してきて感じたこと― 最後に今まで作品を制作してきて感じたことについて述べたいと思います 頭の中で浮かんだイメージを、実際に目に見える形として表現する作業は、とても難しい行為です。何もない真っ白なところから、少しずつ形にしていく作業は、とても困難です。特に時間が制限されている場合など少しでも、近道を探したくなるのですが、結局は頭の中にイメージが決まっていて、そのイメージに作品がどれだけ近づける事ができるかが、問題なのかもしれません そして、作る作品のレベルを上げるためにも、物をイメージする力、発想する力を自分で育てる事も、モノを作る人間にとって大事な事なのかもしれません。 参考文献 〇眠れぬ夜の教師のために/三上 満/株式会社大月書店/1986年〇CineLesson6〈日本製映画〉の読み方1980‐1999/編・武藤起一+森直人+編集部 /フィルムアート社/1999年〇ヌードの夜(ビデオ作品)/監督・石井 隆/パイオニアLDC株式会社/1993年〇天使のはらわた 赤い眩暈/監督・石井 隆/にっかつビデオ株式会社/昭和63年〇この世の果て(ビデオ作品)/監督・中江 功ほか/株式会社ポニーキャニオン /1994年〇月9ドラマ青春グラフィティ/古池田しちみ/株式会社同文書院/1999年〇アダルト・チルドレンと癒し 本当の自分を取りもどす/西尾和美/学陽書房/ 1997年〇NHKスペシャル 子どもをどう救うのか 〜児童虐待・苦悩する対策の現場〜/ NHK総合/1999年放送〇原色 子どもの絵診断事典/浅利 篤 監修/日本児童画研究会 編著/株式会社 黎明書房/昭和60年8月10日◯タマミちゃん ハーイ!/オーシマ タエコ著/株式会社童心社 発行/1996年◯オイスター・ボーイの憂鬱な死/ティム・バートン著/アップリンク 発行/1999年