第5章 「活動写真映画取締規則」と映画国策化 1.日本と朝鮮においての映画国策化への推進
世界各国で進む映画の国策化傾向にやや遅れ、日本では1930年代に入って映画が急速に普及 すると、その絶大な社会的影響力を国策に利用しようとする動きが起きた。1931年浅岡信夫は 『映画国策の提唱』で映画の社会的影響力を認めながら、映画政策の統一、映画産業の統制及 び奨励を計る映画局設置と映画国策の確立1を求めた。
当時の代議士岩瀬亮は映画国策を主張する中で最も影響力があり、政策化に働きかけた人物 である。彼は1933年(昭和8)2月、衆議院に「映画国策樹立ニ関スル建議案(以下「映画国策 建議案」と表記する)」を提出した。その契機となったのは1932年(昭和7)の第28回列国議会 同盟ジュネーブ会議に議員団の一人として参加した際、現地で日本紹介の映画を見て恥を掻い たせいであるといわれている。‘各国のニュース映画が上映された中に、外国人の写した日本 風俗の1巻があり、熱海の宿屋の庭で貧弱な肉体の芸者が10人ばかり半裸体姿で舞踊する場面を 見て、恥ずかしさで席にいたたまれない思いをした2’と回顧している。大衆化された映画を 通じて間違って紹介された国家のイメージが国益に如何に甚大な損害を与えるかを実感したの である。岩瀬亮による「映画国策建議案」は「映画の指導統制」と「高雅なる日本紹介映画の 製作」を主要内容として1933年(昭和8)3月4日衆議院本会議を通過した。
「映画国策建議案」に基づき、内務省警保局は世界各国の映画国策に関する文献調査を行っ た。その調査研究は同年6月、次の項目について各国の事例を分析、『各国に於ける映画国策の 概況』という文献にまとめ、映画国策化のための大事な資料として取扱われた。
『各国に於ける映画国策の概況』の主な内容 1.映画事業の指導統制の為の行政機関又は団体設置の問題
2.国産映画の指導保護奨励の問題 イ)外国映画輸入制限の問題 ロ)映画製作会社の指導並びに監督の問題 ハ) 映画製作会社の奨励助成特に有料映画製作者に対する奨励金若しくは賞金授与の
問題 ニ) 国産映画の海外における販路開拓の問題、就中映画により我国の政治、経済、社
会事情その他文化一般を外国に宣伝紹介する問題 3.教育映画乃至教化映画の問題
イ) 国家の教化映画に対する方策樹立の問題、国家、公共団体等による映画の製作、 配給、上映の問題
ロ)教育映画、教化映画の製作者若しくは配給者の指導統制乃至奨励助成の問題 ハ)映画館における教育映画若しくは教化映画の強制上映の問題
141
ニ)教化映画、教育映画上映の際における観覧税若しくは興行税の減税の問題 4.映画研究機関、映画博物館、映画ライブラリー、映画俳優学校、映画技術学校等の
設置の問題 5.映画検閲の問題
イ)年少者の映画観覧の制限の問題 ロ)輸出映画検閲の問題 ハ)内務省の検閲と税関における検閲との統一問題 ニ)陪審検閲の問題 3
『各国に於ける映画国策の概況』という文献は内閣総理を始め各関係者に配布され日本映画 国策の樹立の為の研究書となった4。映画国策への推進の結果として、先ず可視化されたのが 内務大臣を会長とする「映画統制委員会」の成立であった。同委員会は1934年(昭和9)3月13 日の閣議でその規定と審議事項が決定され、正式に活動することになった。
「映画統制委員会」で行なわれた審議事項は各官庁の映画行政、国産映画の指導統制及び保 護奨励、外国映画輸入、教化映画の製作及び強制上映等にまで広範囲にわたった。次は同委員 会において取扱われた審議内容である5。
「映画統制委員会」審議事項 1.各官庁ニ於ケル映画行政ノ連絡統制ニ関スル事項 2.各官庁ニ於ケル映画ノ製作、配給、上映ニ関スル事業ノ連絡統制ニ関スル事項 3.国産映画事業ノ指導統制並ニ保護奨励ニ関スル事項
(イ)外国映画輸入ニ関スル事項 (ロ )映画製作業者ノ奨励、助成殊ニ優良映画製作者ニ対スル奨励金若ハ賞金授与ニ
関スル事項 (ハ)映画製作業者ノ指導、監督ニ関スル事項
(ニ)国産映画ノ海外ニ於ケル販路開拓ニ関スル事項 (ホ)映画ニ依ル我国文化ノ宣伝紹介ニ関スル事項 (ヘ)国産生フィルム製造工業確立ニ関スル事項
4.教育映画ニ関スル事項 (イ)国家公共団体等ノ教化映画ノ製作、配給、上映ニ関スル事項 (ロ)教化映画ノ製作者並ニ配給者ノ指導、統制、奨励、助成ニ関スル事項 (ハ)映画館ニ於ケル教化映画ノ強制上映ニ関スル事項 (ニ)教化映画上映ノ際ニ於ケル観覧税又ハ興行税ノ減免ニ関スル事項 (ホ)其ノ他教化映画ニ対スル方策樹立ニ関スル事項 5.映画検閲ニ関スル事項
(イ)年少者ノ映画観覧ノ制限ニ関スル事項
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(ロ)輸出映画ノ検閲ニ関スル事項 (ハ)輸入映画ニ対スル内務省検閲ト税関ニ於ケル検閲トノ統一ニ関スル事項 (ニ)映画ノ広告、説明ニ関スル事項
6.映画研究機関ニ関スル事項 7.其ノ他映画ニ関スル重要事項
以上 で述べたように日本内務省が研究していた各国の映画国策と映画統制委員会審議の主要 内容は、1)日本映画の保護及び奨励、2)外国映画の上映制限、3)社会教化映画の常設館 での強制上映、4)映画輸出統制等であった。しかし、同委員会を設置した斉藤実内閣が同年7 月に崩壊したため映画統制をめぐる討論は突然打ち切られた6。
ところが、このような映画国策に関する研究は朝鮮総督府で1934年(昭和9)9月府令を以っ て施行された「活動写真映画取締規則」にそのまま適用された。つまり岩瀬亮の「映画国策建 議案」に基づき、内務省で準備してきた映画国策は朝鮮で先に施行されることになったのであ る。
朝鮮総督府において同年9月1日から実施された映画の国策的統制案の「活動写真映画取締規 則」の担当責任者は清水重夫で、彼は内務省の官僚として映画統制委員会規定及び審議事項を 立案している7。『警察研究』第六巻第五号で清水は‘筆者が朝鮮総督府主管課長として実施 の責に任じたものであるが、当時内務省で居られた増田甲子七君等の指導に負う所が少なくな かったのである。殊に同君等が苦心の結果編集せる警保局刊行の『各国における映画国策の概 況』は唯一の参考資料として資する所が少なくなかった’と述懐している。内務省で映画国策 を研究していた担当者が朝鮮総督府でも同じことを立案したということになる。
それではなぜ「活動写真映画取締規則」のような国策性の映画取締規則が日本より朝鮮で先 に施行されたのであるだろうか。総督府の意図は当時の『国際映画新聞』によると‘映画によ る朝鮮民衆の教化を誤たざらしめ、朝鮮に対して外国に誤った認識を与えざるやう且つ朝鮮国 産映画の振興を造成し以て朝鮮統治上に裨益するを多からしんとするもので、フィルム検閲規 則と併せ施行せられる’8としている。又当時映画検閲の主務担当だった清水重夫図書課長は 次のように述べている。
映画の上映に際しても必要ある場合道知事に於いて種々の制限を加えて我国情に適せざ る映画にして我国固有の国民性又は善良な風俗を害するものを防止し又一面社会教化的の
優良 映画に対しましては特殊の便宜的取扱を為し或は必要によりては朝鮮総督は映画の強 制上映を命じて以て社会教化の目的を達することとして又移輸出映画の許可制を設けて朝 鮮文化の朝鮮外に対して誤り伝えらるることを防ぎ、或は保健衛生上の見地より観客の年 齢制限を為し、又映写時間の制限を為す等即ち映画の上映制限、社会教化的映画に対する 特殊取扱映画の移輸出許可等を主たる内容としたものであります9。
143
つまり社会教化に役立つ「優良映画」を奨励し、朝鮮を海外に正しく知らせることが映画国 策の主な内容になっている。しかし、これは朝鮮で映画国策を実施する名分であって、真の目 的と意図は別にあった。朝鮮で映画国策を日本より先んじて第一歩を踏み出した背景について、 次に当時の朝鮮内の映画状況を探りながら考えてみたい。
2.朝鮮における映画国策の施行
施行の背景 朝鮮 の民衆は映画の統計からみると日本映画を好まなかったことが分かる。映画国策の研究
が進められていた1932年(昭和7)当時、朝鮮には96ヶ所の映画興行場があった。その内49ヶ所 が映画専門館で47ヶ所が一般興行場として映画を上映していた。経営者は日本人の方が多く、 映画専門館の38ヶ所と一般興行場41ヶ所が日本人の資本によるものであった。朝鮮人が経営し ているのは映画専門館11ヶ所、一般興行場4ヶ所に過ぎなかった。それぞれの映画館では当時日 本人向けと朝鮮人向けの映画を区別して別々に上映した。日本人向けの映画館は映画専門館30 ヶ所と一般興行場27ヶ所、朝鮮人向けの映画館は映画専門館13ヶ所と一般興行場7ヶ所程度であ った。当時『国際映画年鑑昭和9年版』によると朝鮮興行場、上映映画数、観客数の統計は次の ようである10。
表<5-1>昭和7年朝鮮興行場数統計
出典:朝鮮総督府警務局図書課調査「朝鮮映画検閲製作興行統計」『国際映画年鑑昭和九年 版』国際映画通信社、1934年、130頁。
表<5-2>昭和7年上映映画数統計
出典:朝鮮総督府警務局図書課調査「朝鮮映画検閲製作興行統計」『国際映画年鑑昭和九年
日本人向
朝鮮人向
日・朝両方向

映画専門
其他
映画専門
其他
映画専門
其他
日本人経営
27
27
5
3
6
11
79
朝鮮人経営
3
-
8
4
-
-
15
日・朝共同経営
-
-
-
-
-
2
2

30
27
13
7
6
13
96
朝鮮映画
日本映画
外国映画
巻数
米数
巻数
米数
巻数
米数
日本人経営
-
-
115,485
39,091,122
25,754
55,003,876
朝鮮人経営
7,149
5,210,075
3,287
775,390
21,326
20,497,042
日・朝共同経営
557
167,100
200
2,400
2,070
261,000

7,706
5,377,175
118,971
39,848,812
49,150
75,761,918
144
版』国際映画通信社、1934年、130頁。 表<5-3>昭和7年朝鮮各道別有料映画観覧人員統計
出典:朝鮮総督府警務局図書課調査「朝鮮映画検閲製作興行統計」『国際映画年鑑昭和九年 版』国際映画通信社、1934年、130~131頁。
『国 際映画年鑑昭和九年版』によると表<5-3>の「昭和7年朝鮮各道別有料映画観覧人員 統計」を興行場系統によって区別すれば、日本映画を主に上映している日本人向興行場には日 本人が3,035,662人で入場客の66%を占めており、朝鮮人は1,505,299人で34%に相当する。し かし、外国映画を主に上映していた朝鮮人向けの興行場には日本人が69,119人で13%を、朝鮮 人は1,299,585人で87%を占めている。日本人と朝鮮人が共同に運営している興行場には日本人 が5,128人で5%、朝鮮人は94,817人で95%を占めており、全体を通して日本人54%、朝鮮人4 6%の割合となっている11。
表<5-2>からは当時の朝鮮における日本映画と外国映画の上映割合が分かる。日本映画 39,848,812メートルに比べて外国映画は75,761,918メートルで、全体の65.5%を占有している。 これを興行系統別に分けてみると、日本人経営の映画館では日本映画が39,091,122メートル(4 1.5%)、外国映画は55,003,876メートル(58.5%)の割合でを上映し、外国映画の方が多かっ た。その差は朝鮮人経営の映画館になると極端に広がる。日本映画が755,290メートル、外国映 画は20,497,042メートル、これに朝鮮映画5,210,075メートルを加えると日本映画は2.8%しか
興行場 数
日本人
朝鮮人
観覧人員
人口
一人当比 率
観覧人員
人口
比率
京畿道
17
1,139,711
134,639
8回強
1,203,313
1,981,971
3人に2人
忠清北道
2
22,663
7,916
3回弱
23,961
858,111
35人に1人
忠清南道
7
95,389
23,983
4回弱
47,664
1,349,622
29人に1人
全羅北道
7
117,839
33,558
4回弱
67,327
1,410,108
21人に1人
全羅南道
7
144,482
41,558
3回弱
141,195
2,293,346
16人に1人
慶尚北道
9
411,351
48,319
4回強
286,976
2,299,668
8人に1人
慶尚南道
17
528,805
86,067
6回強
237,829
2,015,817
8人に1人
黄海道
6
29,836
18,147
2回弱
45,618
1,474,576
32人に1人
平安南道
8
254,471
32,960
8回弱
142,635
1,278,736
9人に1人
平安北道
3
81,527
19,971
4回
143,878
1,511,215
11人に1人
江原道
2
19,496
11,660
2回弱
11,939
1,421,860
111人に1人
咸鏡南道
8
256,524
35,928
7回
302,082
1,499,598
5人に1人
咸鏡北道
6
107,808
28,750
4回弱
16,414
696,645
42人に1人

98
3,209,909
523,452
6回弱
2,725,454
20,037,273
23人に1人
145
上映されなかった。 第4章の表<4-3>からも当時朝鮮における映画上映の傾向が分かる。1926年(大正15)8
月から1935年(昭和10)3月までの映画検閲統計では、日本人向の映画検閲申請件数は日本の時 代劇3,791件、現代劇3,506件、外国劇映画3,089件、朝鮮人向の申請件数は日本の時代劇36件、 現代劇169件、外国劇映画2,061件である。
以上の統計から当時の朝鮮人は、日本映画を主として上映する日本人経営の興行場にはあま り足を運ばなかったこと、日本映画よりは外国映画を好んだことが分かる。その原因について は朝鮮人には日本の時代劇が分かりにくかったことや、悲劇の多い日本映画よりは明るいアメ リカ映画が好きだったなど色々な解釈があるが12、そうした状況についての当時の朝鮮総督府 で映画検閲と統制の担当者二人の分析が目を引く。
朝鮮人が日本映画をあまり見ない理由として、警務局図書課フィルム検閲係だった池田国雄 は‘朝鮮の大衆に喜ばれる映画は音楽物や恋愛物のような純粋娯楽映画で従来から洋画に親し むことが多かった。時代劇の多い日本映画は嫌う傾向があった13’と説明している。又「活動 写真映画取締規則」の制定当時警務局図書課長だった清水重夫は朝鮮人が日本映画を嫌う理由 として以下のように民族的感情を取上げている。
一般朝鮮人は内地産映画を見ることを好まないのである。然るに従来は内地産映画は朝 鮮人の嗜好に適せない為では決してない。内地産映画は内容に於いても技術に於いても必 しも外国産映画に劣っていない。のみならず同文同種の朝鮮人に対しては外国産映画に比 して内地産映画がより嗜好に適すべき筈なのである。そこにデリケートな民族的感情が存 するのである。政治的立場を異にする民族的感情が存するのである。総ての朝鮮人とは言 わないが就中知識階級の青少年の多くは日本の統治そのものに対してさえも往々にして冷 淡である14。
日本の朝鮮植民地統治期間中「朝鮮特殊事情」といわれた反日感情が映画の趣向にまで及ん でいたことを指摘している。映画の普及拡大に従いその社会的影響力も急増していく時期に、 日本映画を理解できないとか、民族的感情といった理由で日本映画を好まない朝鮮人の映画趣 向を日本当局では見逃すことができなかった。特に、朝鮮人同化を植民地統治の根本政策とし ているのに日本映画を嫌い、外国映画を好むというのでは統治上大問題の筈であった。
「活動写真映画取締規則」の全文
清水図書課長が‘朝鮮は内地に比して映画統制の必要が一層大なる客観的状況に置かれてあ る。内務省における先輩僚友の研究の結果が先ず朝鮮において実を結んだことは筆者の特に欣 快とする所である15’と述べたことは、朝鮮において映画国策が先に実行されなければならな かった理由をよく表している。反日感情から始まった日本映画への消極的な態度や、外国映画 好みの朝鮮人趣向に歯止めをかけ、朝鮮人同化と統治に映画を利用することが朝鮮における映
146
画国策の真の意図だったのである。 朝鮮における映画動向についての当局の見解がここに至ると、1926年(大正15)に施行され
た「活動写真フィルム検閲規則」による興行場の衛生、映画の公安風俗、「警察的見解」によ る警察行政上の取締は消極的な方法に過ぎなかった。日本映画と外国映画の上映割当、外国映 画の輸入制限、教化映画の強制上映等、国家による積極的な統制案が必要とされたのである。
そこで朝鮮総督府では内務省で映画国策を研究していた清水重夫等の官僚に朝鮮における映 画国策を樹立させたのである。その結果、朝鮮総督府では内務省の「映画統制委員会」の審議 事項とよく似た「活動写真映画取締規則」全文13か条を1934年(昭和9)8月7日府令として公布 し、同年9月1日より実施することになった。この規則は既に施行されている「活動写真フィル ム検閲規則」と一緒に施行するものであって、検閲により公安風俗、及び「警察的見解」上の 取締を行なうと共に、さらに新しい規則を以って映画の上映においても色々な統制を加えたの である。同規則の全文は次の如くである。
「活動写真映画取締規則」
第一條 活動 写真映画ハ活動写真「フィルム」検閲規則ニ依ルノ外本令ニ依ルニ非ザレバ之ヲ 映写シテ多衆ノ観覧ニ供スルコトヲ得ズ
第二條 本令 ニ於テ活動写真映画興行者(以下単ニ興行者ト称ス)ト称スルハ活動写真映画ヲ 映写シテ多衆ノ観覧ニ供スルコトヲ業トスル者ヲ謂フ
第三條 興行 者其ノ業ヲ開始セントスルトキハ其ノ業ノ開始ノ日ヨリ十日前迄ニ左ニ掲グル事 項ヲ具シ之ヲ興行場ノ所在地ヲ管轄スル道知事ニ届出ヅベシ
一 住所、氏名及生年月日(法人ニ在リテハ主タル事務所ノ所在地、名称並ニ代表者ノ住所、 氏名及生年月日)
二 興行場ノ名称及所在地 三 業ノ開始予定年月日 前項 第一号又ハ第二号ノ事項ヲ変更シタルトキハ興行者ハ十日以内ニ之ヲ興行場ノ所在地ヲ
管轄スル道知事ニ届出ヅベシ 興行者其ノ業ヲ廃止セントスルトキハ第一項ノ規定ヲ準用ス
第四條 興行 者ハ一月毎ニ其ノ月内ニ於テ映写シタル映画ノ題名(外国製ノモノニ在リテハ其 ノ原名及訳名)、製作国、製作者、巻数及メートル数ヲ興行場別ニ翌月十日迄ニ興行場ノ所 在地ヲ管轄スル道知事ニ届出ヅベシ
第五條 道知 事必要アリト認ムルトキハ一興行又ハ一月ヲ通ジ興行者ノ映写スル映画ノ種類、 数量又ハ映写時間ヲ制限スルコトヲ得
第六條 社会 教化ノ目的ヲ以テ製作セラレタル映画又ハ時事、風景、学術、産業等ニ関スル映 画ニシテ朝鮮総督ノ認定ヲ受ケタルモノニ付テハ前條及第八條第二項ノ規定ヲ適用セズ
前項 ノ認定ヲ受ケントスル者ハ申請書ニ映画ノ題名(外国製ノモノニ在リテハ其ノ原名及訳
147
名)、製作国、製作者、巻数及メートル数ヲ記載シ説明台本二部ヲ添付シ之ヲ朝鮮総督ニ提
出スベシ 第七條 朝鮮 総督必要アリト認ムルトキハ興行者ニ対シ第五條ノ制限ニ拘ラズ必要ナル映画ノ
映写ヲ命ズルコトアルベシ 第八條 興行 者ニ非ズシテ映画ヲ映写シテ多衆ノ観覧ニ供セントスル者ハ予メ其ノ映画ノ題名
(外国製ノモノニ在リテハ其ノ原名及訳名)、製作国、製作者、巻数、メートル数及映写時
間ヲ具シ映写地ヲ管轄スル道知事ニ届出ヅベシ 前項 ノ場合ニ於テ道知事必要アリト認ムルトキハ映画ノ種類、数量又ハ映写時間ヲ制限スル
コトヲ得 第九條 朝鮮 内ニ於テ撮影シタル映画(未ダ現像セザル映画ヲ含ム)ヲ輸出又ハ移出セントス
ル者ハ申請書ニ其ノ映画ノ題名、製作者、巻数及メートル数ヲ記載シ説明台本二部ヲ添付シ
朝鮮総督ノ許可ヲ受クベシ 前項ノ許可ヲ受ケタル者ハ輸出申告ノ際許可書ヲ税関ニ提出スベシ 第一項ノ場合ニ於テ朝鮮総督必要アリト認ムルトキハ映画ノ検閲ヲ為スコトアルベシ
第十條 第五 條又ハ第七條ノ規定ニ基キテ発スル命令ニ違反シタル者ハ三月以下ノ懲役若ハ二 百円以下ノ罰金又ハ拘留若ハ科料ニ処ス
第十一條 第九 條ノ規定ニ依ル許可ヲ受ケズシテ映画ヲ輸出又ハ移出シタル者ハ二月以下ノ懲 役若ハ百円以下ノ罰金又ハ拘留若ハ科料ニ処ス
第十二條 第三 條、第四條若ハ第八條第一項ノ規定ニ違反シ届出ヲ為サズ若ハ虚偽ノ届出ヲ為 シタル者又ハ第八條第二項ノ規定ニ基キテ発スル命令ニ違反シタル者ハ五十円以下ノ罰金又ハ 拘留若ハ科料ニ処ス 第十三條 法人 ノ代表者、法人若ハ人ノ代理人、使用人其ノ他ノ従業者又ハ人ノ戸主、家族若
ハ同居者ガ其ノ法人又ハ人ノ業務ニ関シ本令ニ違反シタルトキハ本令ニ定ムル罰則ハ之ヲ行
為者ニ適用スルノ外其ノ法人又ハ人ニ対シテモ之ヲ適用ス 未成 年者又ハ禁治産者ガ本令ニ違反シタルトキハ本令ニ定ムル罰則ハ之ヲ法定代理人ニ適用
ス但シ其ノ営業ニ関シ成年者ト同一ノ能力ヲ有スル未成年者ニ付テハ此ノ限ニ在ラズ 附則
本令ハ昭和九年九月一日ヨリ之ヲ施行ス 本令施行ノ際現ニ活動写真映画ヲ映写シテ多衆ノ観覧ニ供スルコトヲ業トスル者ハ本令施行ノ 日ヨリ二十日以内ニ第三条第一項第一号及第二号ノ事項ヲ具シ興行場ノ所在地ヲ管轄スル道知 事ニ届出ヅベシ
3.「活動写真映画取締規則」の国策的内容
映画の上映制限 上記の 13か条にわたる規則の中心となっているのは外国映画上映の比率を決めた映画の上映
148
制限(第五條と第八條)、社会教化映画の常設館での強制上映(第六條と第七條)、朝鮮で撮ら れた映画の輸出及移出の許可(第九條)の三つにまとめられる。
三つのうち、朝鮮総督府における映画統制の核心ともいえるのが、第五條と第八條の上映制 限で、映画の種類、数量、映写時間等を制限するものであった。映画種類の制限の基準は映画 の内容が及ぼす社会的影響によるものとしている。制限の基準と範囲は曖昧なものであるが、 制定の究極的な目的は外国映画の制限にあった。朝鮮総督府では1934年(昭和9)8月7日警務局 長通牒の「活動写真映画取締規則施行ニ関スル件」を通じて外国製映画の制限を次のように決 めた。
各興行場において1 ヶ月に上映できる外国製映画の制限 ○1935年(昭和10)末まで 上映映画の総メートル数の4分の3以内 ○1936年(昭和11)中 上映映画の総メートル数の3分の2以内
○1937年(昭和12)以後 上映映画の総メートル数の2分の1以内
16
換言すれば1935年(昭和10)末までは朝鮮内の如何なる映画館においても1ヶ月に上映総メー トル数の4分の1は日本と朝鮮製映画(当時は国産映画17と称した)を上映しなければならなか ったということである。又1937年(昭和12)以後は1ヶ月の内に総メートル数の半分以上の日本 と朝鮮映画の上映が義務付けられた。この制限は何れも常設館における1ヶ月のことであり、巡 回映画興行者に対しては1興行毎に制限された。
このように外国映画と自国映画の割合を決め、これを興行者に強制する映画割当制度(クオ ータ・システム)による上映制限は、自国映画保護と奨励策の一環として既にヨーロッパ諸国で 採用されていた。ドイツで1925年(大正14)1月外国映画と自国映画を1対1の割合と決めて実施 したのが、最初の例である。これが自国映画の保護には最も効果がある制度として評価され、 イタリア、チェコスロバキア等に広がり、1927年(昭和2)末にはイギリス、フランス等におい ても映画割当制度が実施された18。これを日本内務省が映画の国策化のために研究し、朝鮮で 先ず試みたのである。
映画の強制上映
映画の強制上映とは第七條に明記されているように上映制限に拘らず、朝鮮総督が必要であ ると認める場合は特殊の映画の上映を映画興行者に命令できることである。その特殊の映画と は統治の目的を達成するのに役立つもの又は国策遂行のために必要とされるもの19で、社会教 化に利用できる映画を指していた。
社会教化映画については、前章で述べたように朝鮮総督府は社会教化映画の奨励と普及を図 るために、既に1929年(昭和4)4月から内務局社会課に政務総監を会長とする「朝鮮社会事業 協会」を置き、社会教化映画の中から「優良映画」を推薦映画として選定していた。この場合 社会教化用映画とは一般興行用映画ではなく、文字通り社会教化のために製作されたもので、
149
朝鮮社会事業協会から推薦された社会教化用映画は常設館で単独上映されず、一般興行映画と 共に同時上映された。
一方「活動写真映画取締規則」で強制上映を命じ得る社会教化映画とは、一般興行映画の中 から社会教化に利用できる映画と認定したものである。朝鮮総督はこの「認定映画」を‘興行 者の利益を害せざる限度において’20各映画館に一定期間上映を強制するのであった。
総督府は社会教化に値する映画を選定するために、1934年(昭和9)9月11日内訓第15号活動 写真映画審査会規定により「活動写真映画審査会」を設置した。審査会は総督府の学務局長を 会長とし、文書課長、図書課長、社会課長、学務課長及び事務官又は理事官二人以内の構成員 で組織され、社会教化映画の認定に当った。
社会教化映画として認定された映画、又は時事、風景、学術、産業等に関する映画として朝 鮮総督の認定を受けた映画は「活動写真映画取締規則」第五條の映画の種類、数量、映写時間 等の上映制限を適用されなかった。又「活動写真映画審査会」から認定されない場合でも社会 教化用の映画に対しては普及と奨励のために総督府で行なわれる検閲手数料を免除した。社会 教化映画を対象とした検閲手数料の免除標準は次のようであった。
(1)甲種 映 画の内容が公益的にして観覧者に対し教化、宣伝、又は指導啓発等有益な る効果を与えるもの
(2)乙種 甲 種手数料免除映画の如き内容の映画にあらざるも官公署、学校、公益法人 又はこれに準ずる団体等が公益のために使用するもの
(3)丙種 新 聞社、通信社等が公益のために無料にて多衆の観覧に供せんとする映画は その内容が甲種手数料免除映画の如き程度のものにあらざる場合にも手数料 を免除すること21
朝鮮総督府では1920年代半ばからは社会教化映画によって朝鮮人を教育してきたが、同規則 の施行により、朝鮮人教化のために社会教化映画を強制的に利用することができ、映画は総督 府が朝鮮統治と国策を遂行するためにさらに積極的に利用されるようになった。当時警務局図 書課長清水が‘立法者の社会教化の目的に非ずして寧ろ朝鮮統治の根本策又は帝國の国策の遂 行宣伝のためにあった’22と語ったのはそれを立証している。
映画の輸出及び移出の許可
「活動写真映画取締規則」は上映制限と強制上映の条項により、外国映画上映を制限し、又 社会教化映画上映を強制する国策的な措置を取る以外に、映画を海外と日本に輸出及び移出す る場合においても同規則第九條により統制した。朝鮮内で撮影した映画は勿論、まだ現像して いないネガフィルムも検閲を受け、朝鮮総督の許可を必要とした。輸出及び移出の許可制につ いての当局の趣旨は、朝鮮の文化、統治状況等が国外に誤って伝えられるのを防ぐためである とされていたが、その実は軍事国防上の見地、内鮮融和を阻害するもの等、総督府の統治上悪
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影響を及ぼす映画の輸出及び移出の制限にあった。 輸出映画の許可制もヨーロッパ諸国の映画国策の一環として1920年代の半ばから始ったもの
であった。国家の重大なる利益を害するもの又は国辱的映画の輸出を制限する趣旨を持つこの 制度について、日本はイタリアの映画国策事例を最も参考にした23。当時イタリアでは自国の 経済的若しくは政治的利益、国家の威信、国家の施設若しくは官庁、陸海軍等に不利益、悪影 響を及ぼす可能性のある映画、又は外国人をしてイタリアの国民に対し、誤解若しくは悪感情 を抱かしめ、又は国際の友好関係を阻害する映画の輸出を禁止していた。このような輸出映画 検閲制度も日本の内務省が映画国策化のために「映画統制委員会」によって研究されものたが、 朝鮮で先に試みられた。
4.「活動写真映画取締規則」施行の結果
‘優良なる映画を奨励して真に朝鮮民族の文化的向上に資し以て朝鮮統治の徹底を期せねば ならぬ。又内地産映画を奨励し日本民族を真に理解せしむることに努むることも内鮮融和を促 進する上に於いて必要である。更に進んでは朝鮮に於ける映画産業の勃興を促し朝鮮統治の大 精神の上に朝鮮民族独自の優良なる映画の産出をも期せねばならぬ24’という朝鮮総督府の映 画国策の趣旨に沿って、朝鮮民衆に日本文化を理解させ25、内鮮融和を促進し、朝鮮統治の徹 底を期するためには外国映画の上映を制限して日本映画を奨励することが何よりも効果的だっ た。
実際のところ「活動写真映画取締規則」の施行後、朝鮮の各映画館で優良映画なるものが強 制的に上映されたり、移輸出用の映画が厳しく取締られたという記録はない。しかし、各映画 館において日本映画と外国映画との割当については厳しく統制されていた。「活動写真映画取 締規則」が施行された頃の統計はそれをよく表している。
表<5-2>にあるように1932年度(昭和7)の上映数は日本映画39,848,812メートル、外国 映画75,761,918メートルで(朝鮮映画は5,377,175メートル)外国映画の方が2倍近かった。し かし、「活動写真映画取締規則」が施行された翌年に当たる1935年度(昭和10)当時、朝鮮で9 6ヶ所の興行場及びその他仮設のそれを合せて上映した映画は244,993巻、55,985,886メートル で、日本映画69%、外国映画27%、朝鮮映画4%26の割合で上映率は一気に逆転した。朝鮮総 督府による映画国策としての外国映画の上映制限が、朝鮮映画業界に素早く且つ徹底的に行な われていたことを明白に表している。
以上みてきたように朝鮮総督府は朝鮮における植民地統治上の目的を達成する為に、警察的 な取締と国家的な統制を通じて映画を国策に利用し始めた。つまり、朝鮮総督府は「活動写真 班」による映画の製作と上映と共に、「活動写真フィルム検閲規則」と「活動写真映画取締規 則」を同時に施行することで映画の内容検閲と上映上の統制まで行なうようになったのである。
こうした朝鮮における映画国策の試みはその後の国家総動員体制の中における映画国策の先
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駆的役割を果した。市川彩が『アジア映画の創造及建設』で‘映画統制で内地より一歩を先ん じた朝鮮は事変勃発以来大陸政策の前進基地として愈々その重要性を増やし、これに伴って映 画統制も内地と歩調を合せて強化されんとする機運にあった’27と語ったのは朝鮮における映 画国策の意図を適切に表している。
日本とその植民地の中で唯一朝鮮でのみ施行された「活動写真映画取締規則」は「活動写真 フィルム検閲規則」と共に、1940年(昭和15)朝鮮映画の臨戦体制下における新体制を目指し た「朝鮮映画令」が施行されるまで続けられた。
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第5章
浅岡信夫『映画国策の提唱』政友会、1931年、20頁。 NHK′′ドキュメント昭和′′取材班『ドキュメント昭和4―トーキーは世界をめざす・国策と
しての映画』角川書店、1986年、110頁。 『映画国策の概況』内務省警保局、1933年、2~3頁。 『現代史資料40、マス・メディア統制1』みすず書房、1973年、265頁。 『活動写真「フィルム」検閲年報第2巻』(復刻版)龍渓書舎、1984年、附録76~78頁。 ピーター・B・ハーイ『帝国の銀幕』名古屋大学出版会、1995年、42頁。 前掲書、『現代史資料40、マス・メディア統制1』、265頁。 『国際映画新聞』国際映画通信社、1934年8月20日、132号、26頁。 清水重夫「活動写真映画取締規則」『映画観照』映画観照社、1934年9月7日号、28頁。
10 朝鮮総督府警務局図書課調査「朝鮮映画検閲製作興行統計」『国際映画年鑑昭和九年版』 国際映画通信社、1934年、130~131頁。
11 同上、131頁。 12 池田国雄「朝鮮に於ける映画検閲の特殊性」『国際映画新聞』国際映画通信社、1938年10
月上旬、231号、3頁。 13 同上、2頁。 14 清水重夫「朝鮮に於ける映画国策に就て」『警察研究』良書普及会、1935年5月5日号、24
頁。 15 同上、21~22頁。 16 同上、31頁。 17 当時内務省が出した「各国に於ける映画国策の概況」を参照するとヨーロッパ諸国での国産
映画の定義は次のようである。(引用は、清水重夫「朝鮮に於ける映画国策に就て」『警察 研究』良書普及会、1935年5月5日号、33~34頁)
(イ)1927年の英国活動写真法は国産映画とは下記の条件を具へたるものを指すと定めて居 る。
(1 )英国人又は英国の会社が之を製作したること (2 )セット場面に就ては英国内に在る撮影所にて撮影したるものなること (3 )映画脚本作者は英国人なること
(4)映画製作の為の労務に対する俸給、賃金、其の他の諸支払(版権料、外国人たる男女 優、映画製作者に対する俸給又は支払を除外す)の75パーセント以上が英国人又は英 国居住者に支払はれたること
(ロ)独逸に於ては下記の如き映画は国産映画とは看做されない。 (1)独逸人又は独逸人経営の会社に依り製作せられざる映画 (2)セット場面及ロケーションが独逸国内に在らざる映画(但し屋外撮影が独逸を主題と
せる映画に使用された場合はこの限りでない) (3)映画脚本の執筆、音楽の作曲が独逸人に依って為されざる映画 (4)その映画の製作者が外国人である場合 (5)映画製作者の大多数が外国人である場合 尤も内務大臣は教化的若は美術的の映画に就ては、厳密に前記第4号若は第5号に合致しな いフィルムでも之を独逸映画と看做すことが出来ることになって居る。
(ハ)仏蘭西に於ては国産映画を第一類と第二類とに分ち、 第一類の国産映画と認めらるる映画は次の諸条件に適合するを要する。
(1)筋書作者が佛国人なること (2)監督、映画脚本作者、助手、撮影技手、操作技手が佛国人なること (3)セット撮影が佛国内に於て行はれ、之に使用されたる諸材料が佛国製のものなること (4)撮影に従事する俳優の75パーセントが佛国人たること
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第二類の国産映画たる為には(1)(2)(3)の条件を具備すれば佛国人映画俳優は50パーセント 迄でよいことになって居る。
18 『国際映画新聞』国際映画通信社、1928年4月10日、14号、156頁 19 清水重夫「朝鮮に於ける映画国策に就て」『警察研究』良書普及会、1935年5月5日号、35
頁。 20 同上。
21 同上、40頁。 22 同上、35頁。 23 清水重夫「朝鮮に於ける映画国策に就て」『警察研究』良書普及会、1935年5月5日号、36
頁。 24 同上、29頁。
25 崔逸淑「朝鮮映画企業の現状」『映画評論』映画評論社、1937年1月号、106頁。 26 同上、104頁。 27 市川彩『アジア映画の創造及建設』国際映画通信社、大陸文化協会、1941年、114頁
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