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2. 今後の課題
 2-5. コンセプトは生活のなかから出てくる
■ 中 村

 そういえば、このあいだニューヨークから、日本のやきもの作家で、コンセプトに基づいてつくっている人を紹介してくれという話がきましたね。そのコンセプトというのが、セックスとかジェンダーとか、政治のパロディとか・・・。相手にしてみたら、日本にはやきものが作家はいっぱいいるんだから、当然そういうコンセプトに基づいてやっているいるはず、と。

 それで僕は、アメリカ文化、近代西洋はそのようなコンセプトがあってアートワークになるということを常識にしているけれども、コンセプトという言葉も戦後の外来語という国があるという認識も必要なんじゃないですか、という話をしたんです。

 多摩美でも、学生はすぐ「コンセプト」といい出しますけど、ただ、あちらのコンセプトの設定は、あまりに紋切り型でしょ。ジェンダー、セックス、政治のパロディ・・・。それに対して学生から出てくるコンセプトは、それなりに自分の生活のなかから出てきている面があるわけで、ある意味じゃ、こちらのほうが、自分の足元からの日本式ともいえるコンセプトじゃないかと思って面白かった。

  ■ 尹

 それは、私の解釈では、こちら側にコンセプトがないのではなくて、こちらのコンセプトを向こう流にパッケージをしていないだけで、それなりにパッケージして提示してあげれば、彼らも納得するんだと思いますけど。

  ■ 笹 山

 あの、僕がいったのは、現代にはこういう問題がある、そのことと自分がものをつくることとを無理やりくっつけるというような大上段に構えたことではないんです。

 例えば、工芸の場合は素材という問題がありますよね。ならば、この素材は自分にとってどういう意味があるのか、とか、この素材はどこからやってきたのか、なぜ自分はこの素材と、いまここで向き合おうとしているのか、とか、そういったところから、その物質の存在している意味を考えていくということ。自分がいま、ここで何をやっているのかという個別的な状況から始めて、そのなかに普遍的な問題性を見出していくということが、だいじじゃないかという気がするんですよ。

  ■ ダニエル

 中村先生に問い合わせてきたという、そのさっきのEメールの話ですが、確かに、社会に関して論争になるような話題をもとに作品をつくっている日本人はいないかもしれない、と中村先生とも話したんです。

 でも、そこで私が思ったのは、中村先生や、多摩美でやっているやきものは、素材の使い方という点で、この日本だからこそ論争になるのかもしれないですけど、アメリカだったら、粘土をどんな使い方しても抵抗がないので論争的なことにはならないなあと。それで、先生たちにお聞きしたいんですけども、粘土を使っている意義、やきものであることの意義――前回の尹先生のお話のように、理想的な素材であるという理由だけなのか、もっと広い意義があると考えているのか・・・。

  ■ 井 上

 こんなところで難しい問題を・・・。いま、整理しながら話しますけど、僕と陶とは、たまたまの出会いなんですね。始めたばかりの学生は、すべてを知ったうえで素材や技法を選びたいなんてことをよくいいますけど、そんなことは不可能でしょう。とっかかりがあれば、そこから広げていけばいいんです。

 僕にとっては、やきものというのは、すごくいいとっかかりだった。それはやっぱり、手との関わりですね。ロクロが回転して土がかたちになるという最初のところで、直感みたいなもんですけど、これ一生扱える、と。目の前で形ができあがっていくのが、ほんとに面白かった。だから、それから後はずっと、やきもので何ができうるのかを考えていくというスタンスを、ずっと続けています。

  ■ ダニエル

 社会に出ると、そううまいことは通じないというようなことを意識しながら教えているかなと思いまして・・・。

  ■ 井 上

 自分がやっていることは間違っていないと思っているから、それを強く伝えたいということが一つ。ただ、多摩美の陶プログラムを経験した人全員が、僕と同じようになるというのは、ありえない。だとしたら、ここで体験したことが一つの手掛りになって色々な仕事に転用できるようになってほしいなっていうのが僕の考えですね。4年間、陶をやったことに、自分の中で筋が通れば、そこからさまざまな経路に派生していくことは可能だろう、だからここでの経験は無駄にはならないだろう、という・・・。

  ■ 中 村

 僕は皆さんと違って、やきもの屋に育ったから、まあ消極的に、やきものが一番自分としてはやれるかなあ、くらいの選択でしかないんですけど。

  ■ 樋 口

 もし、やきもの屋さんのお生まれじゃなかったらどうなっていましたか。

  ■ 中 村

 もう恥ずかしいくらいの、ダメな人生を渡ってきたと思う。

  ■ 樋 口

 中村先生は金沢で生まれて、いわば「アナーキー・イン・金沢」で始めたわけですよね。そのとき、表現の素材として陶を選んだのは、生まれたところがやきもの屋さんだったからなのかどうか。

  ■ 中 村

 僕が表現という言葉を自覚して使うようになったのは、30歳半ば以後で、最初は表現なんてなかったというのが本当なんですよ。器をロクロで挽いて、というのが主体だったし、テクスチャーから追いかけて、何か形ができないかなあというくらいだったんですよね。

 でも、ちょっとハッタリでいえば、磁土はセクシャルだということがあるんですよ。生のとき、セクシャルだよ。木やら石、他の素材であのセクシャルさは味わえませんよ。だから、根底にそれはあるなあとあ思いますね。もうちょっと、まことしやかにいえば、歴史の積み重ねもできるし、時代を切り開く形も出せるし、というところが面白い。それゆえ、こんなに面白い素材を知っている教師の立場からすれば、その入口に立つ青年を抜け出せないようにしてやろうという魂胆はもっていますよ。

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